北史卷七十四 列傳第六十二 楊汪
字元度
- 楊汪は弘農華陰の人。父の琛は儀同三司、汪が貴顕になると平郷県公を追贈された。
- 汪は若い頃粗暴で乱闘を好んだが、長じて学問に励み『左氏伝』に精通し『三礼』にも通じた。周の冀王侍読となり王に重んじられ、沈重に『礼』を、劉臻に『漢書』を学び、二人が「私は及ばぬ」と言うほどであった。
- 隋文帝の相府で兵事に参与し掌朝下大夫、受禅後は平郷県伯・秦州総管府長史を歴任、講義に励み時人に称された。尚書兵部侍郎から尚書左丞に至り、法令に明るく果断で称職とされた。免官の後、洛州・荊州の長史を経て、煬帝即位後は尚書左丞を経て大理卿となり、二百余人の囚徒を一夜で審理し帝に嘉された。国子祭酒として天下の碩学と論難したが誰も汪を屈服させられなかった。
- 楊玄感の乱では河南賛務の裴弘策が汪と密談したことが疑われたが、汪は梁郡通守に出された。煬帝崩御後、王世充が越王侗を立てると吏部尚書として重用され、世充の僭号後もなお用いられたが、世充平定後に凶党として誅殺された。