出自と定策の功
- 劉昉は博陵望都の人。父の孟良は西魏の大司農卿を務め、武帝に従って関中に入った。
- 昉は軽薄で狡猾、周の武帝の時代は功臣の子として皇太子に仕え、宣帝の代になると佞才で寵愛され、小禦正として顔之儀とともに親信を得た。
- 宣帝が病に倒れると昉と顔之儀が枕頭に召され後事を託されたが、帝は失語して言葉を発せなくなった。昉は静帝がまだ幼いことと、かねて隋文帝を非凡と見ていたことから、鄭訳と謀って文帝を輔政の座に引き入れた。文帝が固辞すると、昉は「公がやらぬなら私が自らやる」と迫り、文帝はこれに従った。
- 文帝が丞相となると昉を司馬とした。宣帝の弟・漢王賛が要地にいたので、昉は美妓を贈って歓心を買い、「先帝崩御直後で群情が動揺している、しばらく邸に帰り時機を待たれよ」と説き、若く見識の浅い賛はこれに従った。
- 定策の功により昉は上大将軍・黄国公に封ぜられ、鄭訳(沛国公)とともに文帝の腹心となった。褒賞は巨万に及び、甲士を随え出入りし、世人は二人を「黄・沛」と呼び「劉昉牽前、鄭訳推後」と評した。
驕奢と疎外
- 昉は功に恃んで驕り、財利に溺れ、富商大賈が日々邸に群がった。
- 尉遅迥の乱で文帝が韋孝寬を討伐に遣わした際、諸将の統一が取れず、文帝は昉・鄭訳のいずれかを監軍に出そうとしたが、昉は将たる経験がないと辞し、訳も老母を理由に断ったため、文帝は不快に思い高熲を代わりに遣わした。以後、昉への恩遇は次第に薄れた。
- 王謙・司馬消難が相継いで反乱を起こし文帝が寝食を忘れて憂慮する中、昉は遊興と飲酒にふけり職務を怠り、相府の事務を多く滞らせた。文帝はこれを深く恨み、高熲を司馬に代え、昉は以後ますます疎外された。
- 受禅後、柱国に進み舒国公に改封されたが閑職に置かれ用いられず、昉は佐命の元功でありながら疎んじられたことを甚だ不安に思った。
- 京師が飢饉のとき禁酒令が出されたが、昉は妾に酒屋を営ませて売酒させた。治書侍御史の梁毗がこれを弾劾したが、詔により不問に付された。昉は鬱々として志を得なかった。
謀反と誅殺
- 上柱国の梁士彦・宇文忻もともに失職して怨望しており、昉はこの二人と頻繁に交わった。
- 昉は士彦の妻と密通していたが士彦はこれを知らず、かえって親交は深まり、三人は謀反を企て、士彦を帝に推すことを約した。事が露見し、文帝が糾問すると、昉は免れ得ないと悟り默して申し開きをしなかった。
- 誅殺の詔(要旨):三人はいずれも佐命の功臣として厚遇されながら、豺狼の心を抱いて謀反を企てた。士彦は自らを天命に応ずる者と称し、蒲州で挙兵し河橋を断ち黎陽・河陽の要路を塞ごうとした。子の剛は諫めたが、子の叔諧は父の企てに深く与した。宇文忻は鄴城平定の功を誇りながらなお賞の薄さを恨み、党を宮中に張り交友を多く挙げて宿衛に入れた。禁兵を解かれてもなお企てを改めず、士彦と結んで東西呼応の乱を謀った。昉も相府にあって不法を働き、三度発覚しうち二度は妻が自ら申し出た。昉は自らを「卯金刀(劉)」「一万日」と称し、劉氏が万日の天子となると言っていた。三人はともに首謀者として誅殺に処されたが、士彦・忻・昉の兄弟・叔姪は特に赦された。
- 刑場で宇文忻が高熲に叩頭して哀れみを乞うと、昉は「事ここに至って何を叩頭するか」と一喝した。三人は誅殺され、家財は没収された。数日後、文帝は喪服姿で射殿に臨み、三家の資財を並べて百官に射させ、戒めとした。