北史卷七十三 列傳第六十一 楊義臣

生涯

  • 楊義臣、代の人、本姓は尉遅氏。父の崇は北周に仕え儀同大将軍として兵を恒山に鎮していた。当時隋文帝は定州総管であり、崇は文帝の相貌が非凡であることを知り常に自ら結び親しく交わり、文帝も深く親愛した。文帝が丞相となると尉遅迥の乱に際し、崇は同族であることから自ら囚われ使者を送り罪を請うた。文帝は書を下して慰諭し馳駅で入朝させ常に側近に置いた。開皇初年、秦興公に封じられた。一年余り後、行軍総管達奚長儒に従い突厥を周槃で撃つ際、力戦して戦死した。大将軍・豫州刺史を追贈され、義臣が崇の官爵を襲った。
  • 当時義臣はまだ幼く宮中で養われ、弱冠前より千牛のように宿纫に奉仕すること数年、賞賜は厚かった。文帝はかつて旧恩を語る際、義臣を振り返り長く嘆息し、恩旧を偲び義臣に楊氏の姓を賜り皇族の属籍に編入し皇従孫とする詔を下した。まもなく陝州刺史を拝命。義臣は謹厚な性格で騎射に優れ将領の才があった。のち突厥の達頭可汗が辺境を犯すと行軍総管として白道に出撃し大破した。翌年、突厥が再び辺境を侵すと義臣はこれを撃ち大斤山まで追撃し虜と遭遇した。当時太平公史萬歳も到着しており義臣と合流して大破した。萬歳は楊素に讒言され、義臣の功もついに記録されなかった。
  • 煬帝即位後、漢王諒が反した。当時代州総管李景は諒の将喬鍾葵に包囲され、義臣は朔州総管としてその救援を命じられた。鍾葵は義臣の兵が少ないのを見て全軍でこれに対峙した。当時鍾葵の亜将王拔は驍勇で弓の名手として弓を用い、射手たちは誰も彼を狙い当てられず、しばしば数騎で陣を陥した。義臣はこれを患い王拔に敵し得る者を募った。車騎将軍楊思恩がこれに応じ、義臣は思恩の気迫ある容貌を見て「壮士だ」と称え墒酒(美酒)を賜った。思恩は陣後に立つ王拔を望み盃を地に投げて馬を駆り迫った。二度攻めても討ち取れず従う騎士が退いたため、思恩は王拔に殺された。王拔はこれに乗じて攻め寄せ義臣軍は十余里退いた。義臣は思恩の屍を買い戻し、これを大いに哭き三軍は皆涙し、退却した騎士たちは腰斬に処された。義臣は兵が少ないことから軍中の牛驢をすべて集め数千頭を得ると、数百人にそれぞれ太鼓を持たせ密かに谷間に追い込み、その意表を突いた。義臣は夕刻に再び鍾葵と交戦、初戦が始まると牛驢を追う者たちに急いで進むよう命じた。一斉に太鼓が鳴り土煙が天を覆うと、鍾葵軍は伏兵が現れたと思い大いに潰え、義臣はこれに乗じて撃破した。この功により上大将軍に進み、太僕卿に累進した。
  • 吐谷渾遠征に従い、義臣は琵琶峡に屯し八十里に連営、南は元壽に、北は段文振に接続し吐谷渾主を覆袁川で包囲した。さらに遼東遠征に従い軍将として肅慎道を担当。鴨緑水に至り乙支文德と戦い常に先鋒を務め一日七勝を挙げた。のち諸軍がともに敗れると連座して免官されたがまもなく復位した。翌年、軍副として大将軍宇文述とともに平壌へ向かった。鴨緑水に至った際、楊玄感の乱が起こり撤退した。趙郡太守を検校した。妖賊向海公が扶風・安定間で乱を起こすと、義臣は詔によりこれを討ち平定した。まもなく煬帝の遼東再遠征に従い左光禄大夫に進んだ。
  • 当時勃海の高士達、清河の張金稱がともに徒党を集め盗賊となり郡県を陥落させていた。煬帝は将軍段達を派遣し討たせたが平定できず、詔により義臣に遼東からの帰還軍を率いて討たせ、士達を大破し金稱を斬った。降伏した賊も収容し豆子隲に入り賊の格謙を討ち捕えその状況を上奏した。煬帝はその威名を嫌い急ぎ入朝させ、賊はこれにより再び盛んになった。義臣は功により光禄大夫に進み、まもなく礼部尚書を拝命した。任地で没した。

史論

  • 論じて言う。昔、韓信が垓下の会合の期を違えなければ項王は滅びなかっただろう、英布に淮南での挙兵がなければ漢の統治は栄えなかっただろう。この二人ほどの功勲がありながら憤怨のうちに処刑されたのだから、まして古人ほどの卓越した功績もなく逆心を懐く者はなおさらのことである。梁士彦は風雲の会に遭遇し勇略で名を成しながら、天の与えた功を自らの力と貪った。恩を受けた者は疲れても報う心は尽きず、禍の兆しを生んで欲望を遂げようとした。その顛落は自ら招いたものである。元諧・虞慶則・元冑は、あるいは艱難を共にし、あるいは旧恩を篤くしたが、安楽の時代になると次第に忘れられ、内に不満を懐き功を誇り続けた。時の君主の薄情もあるだろうが、言葉によって禍を招いたこともあるだろう。しかし隋文帝の佐命の元勲の多くは天寿を全うできず、清廟に配享される栄誉に浴した者もほとんど聞かない。これは草創期の帝業ゆえ権謀により本来同心ではなかった者を用いたため、時が経つにつれ疎んじられていったのだろう。牛を牽いて田を踏み荒らせば罪はあるが、これを奪うのに道を尽くさなければ怨みが生じないはずがない。皆巧みな文飾で罪に陥れられたのであり、文帝の猜疑深さは既に甚だしかったと言える。その恩恵の余慶を求めても、また難しいことであった。
  • 達奚長儒は歩卒二千で十万の敵に抗し、矢が尽き軍が殲滅されても勇気はますます奮い立った、壮んなことである。子幹(賀婁子幹)は西は青海に渡り北は玄塞に臨み、胡夷はこれを畏憚した、称賛に値する。萬歳(史萬歳)はまことに智勇を懐き士卒をよく撫で、兵士は死を厭わず軍は疲れを知らなかった。北は匈奴を討ち南は夷獠を平らげ、その兵鋒は絶域まで威をとどろかせた。しかし功を論じ気を張って貴臣に逆らい、偏った讒言により無実の罪で死んだのは人々が皆痛惜するところで、李広の風があると言える。劉方は号令に私心なく軍に臨んで厳粛、林邑を切り従え南海を清め、化外の百蛮も服さぬ者はなかった。杜彦は東夏南服でしばしば戦功を挙げ、北辺の鎮守を担い胡塵を起こさせなかった。周搖は質実さで知られた。獨孤楷は民を恤む善政で誉れを得た。盛(獨孤盛)の踏んだ道は古人の跡を追うに値する。乞伏慧は官爵を兄に譲った、まことに美事と言えるが、供物が薄いことを理由に放黜されるに至ったのは、君主が欲を逞しくすれば罰もまた深くなるということだろう。陰世師は天に廃されるべき運命に遭いながら命を懸けて志を変えなかった、先見の明とは異なるが、後まで節を守り抜いた点では似通っている。義臣(楊義臣)は擾乱の時代に功を成し三度の勝利を収めながら、功により忌まれた、命を全うできたのはむしろ幸いというべきである。

校勘記