生涯
- 乞伏慧、字令和、馬邑の鮮卑の人。祖父の周は北魏の銀青光禄大夫、父の纂は金紫光禄大夫、いずれも第一領人酋長を務めた。
- 慧は若くして慷慨な気性で大節があり、弓馬を得意とし鷹犬を好んだ。北斉の文襄帝の時代、行台左丞を務め太僕卿に累進、永寧県公から宜人郡王に封じられた。兄の貴和もまた軍功で王となり、一門から二王が出て貴顕と称された。北周が斉を平定すると使持節・開府儀同大将軍を拝命、佽飛右旅下大夫を拝命し熊渠中大夫に転じた。韋孝寛に従い尉遅惇を武陟で撃ち功により大将軍を拝命。尉遅迥討伐でも功があり柱国に進み西河郡公を賜った。官爵を兄に譲りたいと願ったが朝廷は許さず、論者はその義を称えた。
- 隋文帝受禅後、曹州刺史を拝命。曹州の旧俗では姦計により戸口簿帳が実態と異なることが多く、慧は着任すると調査し数万戸を発見した。涼州総管に転じ、突厥がたびたび侵掠していた地であったが慧は警戒を厳しくし遠く斥候を配し虜はついに境内に入らなかった。のち荊州総管に転じ、さらに潭・桂二州総管、三十一州諸軍事を領した。その地の風俗は軽薄放埓だったが慧は自ら質朴を実践しこれを矯正し風化は大いに行き渡った。かつて網で魚を捕える者を見ると絹を出して買い取り放したことがあり、その仁心はこの通りだった。百姓はこれを美談とし、その地を「西河公獣」と呼んだ。
- 煬帝即位後、天水太守を拝命。大業五年、吐谷渾遠征の際、郡は西境に近く人々は労役に苦しみ、さらに煬帝の西巡に際し御道の整備不備と献上食料の粗末さを咎められ煬帝は大いに怒り側近に斬るよう命じたが、慧に髪がない(老齢)のを見て赦された。除名され家で没した。