北史卷七十三 列傳第六十一 周搖

生涯

  • 周搖、字世安、河南洛陽の人。その先祖は北魏と同源で初め普乃氏を名乗り、洛陽に居を構えてから周氏に改めた。曾祖の抜抜、祖父の右六肱はいずれも北平王。父の恕延は行台僕射・南荊州総管を歴任。
  • 搖は若くして剛毅で武芸に優れ、性格は謹厚で常に法度に従った。北魏に仕え開府儀同三司を拝命。北周閔帝受禅後、車非氏の姓を賜り金水郡公に封じられた。鳳・楚二州刺史を歴任し吏人に安んじられた。斉平定に従い戦功により柱国に超授され夔国公に進封、まもなく晋州総管を拝命した。隋文帝がまだ定州総管だった頃、文献皇后が京師から州に赴く途中で搖の管轄地を通過した際、接待の礼が薄かった。後に皇后に「公廨は財に富んでいますが、法によりみだりに費やすことはできません、王臣は私腹を肥やしてはならないのです」と述べた。その質直さはこの通りだった。文帝はその奉法ぶりをいつも称えた。文帝が丞相となると済北郡公に改封され豫州総管を拝命した。文帝受禅後、周氏の姓に復した。
  • 開皇初年、突厥が辺境を犯し燕・薊が被害を受け前総管李崇が虜に殺されると、文帝は鎮撫の人材を考え「周搖に及ぶ者はない」と述べた。幽州総管・六州五十鎮諸軍事を拝命、障塞を修め斥候を厳しくし辺境の人々を安んじた。壽・襄二州総管に転じいずれも善政で知られ上柱国に進んだ。老齢により致仕を願い出ると文帝は「公は三代に仕え長寿を保った、まことに善いことだ」と労い座褥を賜った。帰宅し家で没した。諡は恭。