北史卷七十三 列傳第六十一 劉方
劉方、京兆長安の人。北周から隋に仕え尉遅迥討伐・突厥討伐で功を挙げた。仁寿年間には交州の李佛子の乱を平定し、大業元年には林邑遠征を成功させたが、帰路病を得て没した。
生涯
- 劉方、京兆長安の人。剛毅果断な性格で胆気があった。北周に仕え承御上士、戦功により上儀同を拝命した。隋文帝が丞相の頃、方は韋孝寛に従い尉遅迥を相州で破り、功により開府を加えられ河陰県侯を賜った。文帝受禅後、公爵に進んだ。開皇三年、纫王爽に従い突厥を白道で破り大将軍に進んだ。のち甘・瓜二州刺史を歴任した。
- 仁寿年間、交州の俚人李佛子が反乱を起こし越王故城に拠った。左僕射楊素は方に将帥の器があると奏上、詔により交州道行軍総管となり二十七営を統率して進んだ。法令は厳格だが仁愛で士を大切にした。長史・度支侍郎敬徳亮が従軍中尹州で重病になり進めず州館に留まった。別れの際、方はその危篤を哀れみ涙を流し嗚咽し道行く人々を感動させた。論者はこれを称え良将と評した。都降嶺に至り賊に遭遇、方は営主の宋纂・何貴・厳願らを送りこれを破った。進軍して佛子に迫り、まず使者を送り禍福を説くと佛子は降伏し京師に送られた。桀黠で乱を起こす恐れのある者は皆斬った。
- まもなく驩州道行軍総管を拝命し、尚書右丞李綱を司馬として林邑を経略した。方は欽州刺史寧長真・驩州刺史李暈・上開府秦雄に歩騎を率い越常から出撃させ、方自らは大将軍張愻・司馬李綱の水軍を率い比景へ向かった。大業元年正月、軍は海口に至った。林邑王梵志は兵を送り険を守らせたが方はこれを撃退した。軍が闍梨江に至ると賊は南岸に柵を築いて拠ったが、方は旗を大きく掲げ金鼓を鳴らすと賊は恐れて潰えた。渡江後三十里進むと賊は巨象に乗り四方から迫った。方は弩で象を射ると象は傷を負い暴れて陣を踏み荒らし、賊は柵に走り込んだためこれに乗じて攻め破った。こうして区栗を渡り大縁江に進み、行く先々で敵を破った。馬援の銅柱を経て南へ八日進み国都に至った。林邑王梵志は城を捨て海へ逃れ、方はその廟の主の金人を得、宮室を汚し石に功を刻んで帰還した。士卒は瘴気で腫れ死んだ者が十のうち四五に及んだ。方は帰路で病に倒れ没し、煬帝はこれを深く惜しみ詔を下し賞賛、上柱国・盧国公を追贈した。子の通仁が跡を継いだ。
馮昱・王纲――生涯
- 開皇年間、馮昱・王纲・楊武通・陳永貴・房兆はいずれも辺境の将として当代に名を馳せた。
- 昱・纲はいずれも出自不詳。昱は権略に富み武芸に優れた。文帝がまだ丞相だった頃、行軍総管として王誼・李威らと反乱蛮族を討ち平らげ柱国を拝命した。開皇初年、行軍総管として乙弗泊に屯し胡に備え戦えば常に大勝した。纲は驍勇で弓に長け、行軍総管として江北に兵を屯し陳に対峙し陳人に恐れられた。陳征討や高智慧の反乱でも功績があった。柱国・白水郡公を拝命した。
楊武通――生涯
- 武通、弘農華陰の人。果断な性格で馳射に優れた。しばしば行軍総管として西南夷を討ち、功により白水郡公に封じられ左武纫将軍を拝命した。当時党項羌がたびたび辺境を犯していたため威名を頼み鎮守を任され岷・蘭二州総管を歴任した。周法尚とともに嘉州で叛いた獠を討った際、法尚軍が当初不利だったため武通は敵の帰路を断った。馬を束ね車を懸垂させて険を越え敵の不意を突き連戦連勝したが、敵は武通が孤軍で援軍がないことを知り部落を挙げて迫った。武通は数百里転戦したが敵に阻まれ四方の道が絶たれた。武通は軽騎で挑戦したが落馬し敵に捕えられ、殺されて食われた。
陳永貴――生涯
- 永貴、隴右の胡人、本姓は白。勇烈な性格から文帝に親愛された。しばしば行軍総管として辺境を鎮め、戦えば必ず単騎で陣を陥した。柱国・蘭利二州総管を拝命し北陳郡公に封じられた。
房兆――生涯
- 兆、代の人、本姓は屋引氏。剛毅で武略があった。しばしば行軍総管として胡を攻め功により柱国・徐州総管に至った。史書にはその他の事跡は伝わらない。