経歴
- 字元懍,南陽涅陽の人。八世祖孫,永嘉の乱で陳敏を討った功により柴桑県侯に封じられ宜都郡守を除せられ官にて卒。子孫は江陵に居住した。父高之,梁山陰令。懍は少くして聡敏,読書を好み昼夜倦まず,語るたびに古事を引き郷里は「小児学士」と呼んだ。梁大同六年,秀才に挙げられる。二宮の元会に及ばなかったため例により対策しなかった。梁元帝が荊州に鎮すると長史劉之遴に「貴郷は多士,一人の意ある少年を挙げてくれ」と述べ,之遴は懍を推薦,即日引見し記室を兼ねさせた。ある夜,省に召され宿直し《龍川廟碑》を作らせると一夜で完成させた。翌朝呈上すると梁元帝は感嘆した。のち臨汝・建城・広晋三県令を歴任。母の喪に服し哭くたびに血を吐き,二十日の間に三度息絶えては蘇生した。毎朝烏が数千羽廬舎に集まり,哭くと来て哭き止むと去った,時論はこれを孝感の致すところとした。梁元帝即位後,尚書侍郎に抜擢され信安県侯に封,吏部尚書に累遷。懍の父高之はかつて南台侍御史であったが法を犯した際,懍は父の罪を釈免してもらえるなら終身菜食すると願い,高之は理雪され,故に懍は菜食を続け郷里はこれを称えた。元帝の府にあった時,府中では多くこれを矯りと言っていた。ここに至り魚肉を大いに進めると,国子祭酒沛国の劉玨は「本より卿の不忠を知っていたが,孝だけはあると思っていた。今日は忠孝ともに無いということだ」と責め,懍は答えられなかった。懍は博学で才藻あり,口では誰も誉めなかったため朋友はこれをもって軽んじた。当初,侯景平定後,梁元帝は建鄴に還ろうと議したが,懍だけが渚宮に都することを勧めた,郷里が荊州にあったためである。江陵平定後,王褒らとともに関に入った。周文帝は懍が南土に名声高いことから甚だこれを礼遇した。周孝閔帝践祚後,車騎大将軍・儀同三司を拝す。明帝即位後,また王褒らとともに麟趾で群書を刊定し数々の宴賜を蒙った。保定中,卒。集二十巻が世に行われた。