北史卷七十 列傳第五十八 徐招

経歴

  • 字思賢,高平金郷の人。代々著姓。招は少くして法律及び朝廷の旧事を好み,発言や執筆で常に細部まで析明しようとした。洛陽入りの初め未だ仕官していなかったが既に時に知られ,朝廷の疑事には多く議論に加わった。延昌中,浮山堰の征に功あり高文男を賜る。広陽王深が鮮于脩礼を北討する際,員外散騎侍郎・深の府長流参軍に招かれた。招は離間策を進言し葛栄がついに脩礼を殺し自ら魁帥となった。功により侯に進爵。永安初,甲科に射策し員外散騎常侍を除せられ尚書儀曹郎中を領する。招は若くして吏事を習ったが朝儀を精究しておらず,才が達しないことを常に恨み名跡が立たないことを恐れた。長い後,ようやく二千石郎中に転じた。爾朱栄が死に爾朱世隆が河橋に屯すると,荘帝は招を行台左丞とし武牢より北に渡り馬場・河内の衆を率い世隆に抗させた。のち爾朱兆が招を捕らえ鎖して洛陽に送ると,仲遠はその罪を数え斬ろうとしたが,招は「君命に背かず死ねるなら幸いだ」と述べ,仲遠はこれを重んじ「凡そ人が命を受けるのはそれぞれ主のためである,もしこれで殺せばどうして臣下を勧められようか」と言い釈放,行台右丞に用いた。仲遠が南奔すると招だけは洛陽に還った。永熙末,孝武帝に従い関中入り,給事黄門侍郎を拝し尚書右丞を兼ねる。時に朝廷は播遷し典章は遺闕したが,台省の法式に至るまで皆招の記憶によるもので論者はこれを多とした。大統三年,驃騎将軍・侍中を拝す。時に文帝の舅子王起化が罪を犯して死んだ際に追贈の詔があったが,招はこれを正すべく奏を執った。のち度支尚書で卒。子山雲が嗣ぐ。