経歴
- 字衆喜,京兆藍田の人。少くして気概あり州里に称された。周文が関隴を平定した初め,悦は郷里の兵を率いて従軍,しばしば戦功あり。大統元年,相府刑獄参軍を授かる。藍田県伯に封。四年,東魏の将侯景が洛陽を包囲すると周文は救援に赴き,悦もまた郷里の千余人を率いて洛陽に従軍した。開戦前夜,悦は自らの行資を尽くして牛を市い戦士に饗した。悦の部下は力を尽くし斬獲が多かった。大行台右丞に遷り左丞に転じる。長く管轄の任にあり時誉を得た。
- 十三年,侯景が河南に拠って来附し兵の援を請うと,周文は先に韋法保・賀蘭願徳らを遣わし助けさせた。悦は周文に「侯景の高歓に対する関係は始めは郷党の情に篤く終には君臣の契りを定め,位は上将にあり職は台司を重んじた。その分義から言えば魚と水のようなものである。今歓が死んで景がすぐに離貳するのは,君臣の道に違背し忠義の礼に足りないことを知らないわけではない。ただその図る所が大きく小さな嫌疑を恤まないだけである。しかし高氏に背くほどの者が,どうして朝廷に対して節を尽くせようか。今もし勢を益し兵を援ければ,侯景は池中の物とならないばかりか,朝廷が後世の笑いものになることも恐れる」と進言した。周文はこれを納れ法保らを追い戻したが,景はまもなく叛いた。のち京兆郡守・散騎常侍を拝し大行台尚書に遷る。達奚武の梁漢征伐に従う。軍が出ると武は悦にその城主楊賢を説得させ,悦は書を送り賢はついに降伏した。悦はまた武に「白馬は要衝の地,必ず争われる地だ。今城の守りは寡弱で図りやすい,もし蜀兵がさらに至れば攻めるのは実に難しい」と進言,武はこれを是とし悦に軽騎を率い白馬に直行させた。悦が禍福を示すと梁将は深く悟りついに城をあげて降伏した。時に梁の武陵王蕭紀は将任珍奇を遣わし先に白馬に拠ろうとしたが,関城に至って既に降伏したことを聞き引き返した。梁州平定後,周文は悦に刺史事を行わせた。招携して初めて服属した者たちを人吏は安んじた。
- 廃帝二年,本任に召還される。行台を中外府に改め尚書の員が廃されると,悦は儀同として兵を領し郷里に帰った。悦は長く顕職にあり,ここに至って帰郷すると私かに怏怏として,なお郷里に対して驕り宗党への情を失った。長子康は悦の旧望を恃んで自ら驕縦した。所部の軍人が婚礼を挙げようとした際,康は理不尽な陵辱を加えた。軍人がこれを訴え,悦と康はともに罪に坐して除名され遠くの防に配された。於謹の江陵征伐の際,悦を従軍させ功を挙げさせた。江陵平定後,そのまま鎮守に留められた。
- 周孝閔帝践祚後,慣例により官を復し郢州刺史を授かる。まもなく使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・大都督・司水中大夫を拝し藍田県侯に進爵。まもなく司憲中大夫に遷り宇文氏の姓を賜り河北県公に進爵。性は倹約で生業を営まず,内外の栄顕を得ても家は四壁のみであった。明帝は手勅でこれを労い勉めさせた。保定元年,位にあって卒。
- 子康が嗣ぐ,官は司邑下大夫に至る。