経歴
- 字長舒,天水南安の人。曾祖襄,魏に仕え中山郡守に至り代に家を構えた。昶は少くして聡敏,志節あり。弱冠にして材力で聞こえた。魏の北中郎将高千が陝を鎮する際,長史・中軍都督となる。周文が弘農を平定すると相府典簽に抜擢された。
- 大統九年,大軍が芒山で失律すると清水氐の酋長李鼠仁が軍から逃れ帰り険を恃んで乱を起こした。周文はこれを討とうとし使者たりうる者を求め昶を遣わした。鼠仁に会い禍福を説くと,凶徒の一部は従い一部は従わず,従わなかった者は昶に刃を加えようとしたが,昶は神色自若として志気ますます励んだ。鼠仁は感悟し皆相率いて降伏した。氐の梁道顕が叛き南由を攻めると,周文はまた昶を遣わし慰喩し道顕らは款附した。東秦州刺史魏光がその豪帥三十余人とその部落を華州に徙すと,周文は昶を都督としこれを統率させた。これに先立ち汾州の胡が反乱した際,再び昶が慰労に遣わされその虚実を悉く知った。大軍が討伐に赴くと昶は先駆となり撃破した。功により章武県伯に封。
- 十五年,安夷郡守を拝し長蛇鎮将を帯びる。氐の風俗は荒獷であったが昶は威と礼で懐柔し悦服させた。一年の後,軍に従いたいと願う者千余人。帥都督を加授。時に軍機に応じ徴発が急であったため氐情はこれを難しがり再び相率いて叛を謀った。昶はまた密かに使者を遣わし説得しその情を離間させ,離心に乗じて軽く臨むと群氐はなす術なく皆昶に見え,首謀者二十余人を捕らえ斬るとその余衆は平定した。朝廷はこれを嘉し大都督を授け南秦州事を行わせた。時に氐帥蓋鬧らが反すると昶はまたこれを討ち捕らえた。また史寧とともに宕昌羌・獠二十余万を破る。武州刺史を拝す。恭帝初,驃騎大将軍・開府儀同三司を加える。潭水羌が叛し武陵・潭水二郡守を殺すと,昶は儀同駱天人らを率いこれを討平した。
- 周明帝初,鳳州人仇周貢・魏興らが反し自ら周公と号し広化郡を破り諸県を攻め落とし,兵を分けて西進し広業・脩城二郡を包囲した。広業郡守薛爽・脩城郡守杜杲らは昶に援けを請い,杲に報せた使者は周貢の党樊伏興らに捕らえられた。興らは昶が来ることを知り脩城の囲みを解いて泥功嶺に拠り六つの伏兵を設けて待ち構えた。昶が至るとその伏兵に遭遇し戦ってこれを破った。広業の囲みも解け,昶は泥陽川まで追撃して還った。興州人段吒及び氐酋薑多がまた反し郡県を攻め落とすと昶はこれを討ち斬った。昶は自ら抜擢され将帥の任に就いたことから傾心して士に下り,虜獲した氐・羌を撫しては使役し皆昶のために尽力した。周文はかつて「国家の士馬を煩わさず氐・羌を威服させられるのは趙昶のみだ」と述べた。ここに至り明帝は前後の功を録し長道郡公に進爵,宇文氏の姓を賜り厚く賞労した。二年,賓部中大夫を拝し吏部を行う。まもなく病により卒。