北史卷六十九 列傳第五十七 趙仲卿

経歴

  • 性粗暴,膂力あり。周の斉王憲は甚だこれを礼遇した。軍功により上儀同,畿伯中大夫。のち王謙平定の功により大将軍に進位,長垣県公に封。隋文帝受禅後,河北郡公に進み,まもなく石州刺史を拝す。法令は厳猛で些細な過失も許さず,鞭笞は常に二百に及んだ。吏人は震え上がり犯す者はなく盗賊は影を潜め皆その能を称えた。朔州総管に遷る。時に塞北で盛んに屯田が興り仲卿がこれを総統した。少しでも治まらない者があれば主掌を召してその胸背を鞭打ち,あるいは衣を解いて荊棘の中を引き回した。時人はこれを「於菟(虎)」と呼んだ。事は多く成就し収穫は年々広がり辺戍は輸送の憂いがなくなった。
  • 突厥啓民可汗が婚を求めると上はこれを許した。仲卿はこれにより突厥の骨肉を離間し互いに攻撃させた。十七年,啓民は窘迫し隋の使者長孫晟とともに通漢鎮に投じた。仲卿は千余騎を率いて援け達頭は近づけなかった。密かに人を遣わし啓民の部下を誘い帰属させた者二万余家に及んだ。その年,高熲に従い白道を経て達頭を撃つ際,仲卿は前鋒となった。族蠡山に至り虜と遭遇,七日間交戦しこれを大破。乞伏泊まで追い啓民を復す。突厥は全軍で至ると,仲卿は方陣を布き四面で拒戦すること五日,高熲の大軍が到着し合撃すると虜は敗走した。白道を追い秦山を越えること七百余里。時に突厥の降者一万余家,上は仲卿にこれを恒安に処させた。功により上柱国に進む。朝廷は達頭が啓民を襲うことを恐れ仲卿に二万の兵を屯させこれに備えさせ,代州総管韓洪・永康公李薬王・蔚州刺史劉隆らが歩騎一万を率い恒安を鎮したが,達頭が来寇すると韓洪の軍は大敗した。仲卿は楽寧鎮より邀撃し千余級を斬った。翌年,金河・定襄二城を築いて啓民を居させる役を督した。
  • 時に仲卿の酷暴を訴える上表があり,上は御史王偉に取り調べさせると事実であった。その功を惜しんで罪せず「卿の清正は下から憎まれることを知っている」と労い物五百段を賜った。仲卿はますます恣となり,これにより免官。仁寿初,検校司農卿。蜀王秀が罪を得ると詔により益州に赴き取り調べにあたった。秀の賓客が経由した所では仲卿は必ず深く法を適用し州県の長吏で罪に問われる者が半数に及んだ。上はこれを有能とし奴婢五十口・黄金二百両・米粟五千石・奇宝雑物に相当する賞を与えた。煬帝嗣位後,兵部・工部両尚書事を判す。官にて卒,諡は肅。子世弘が嗣ぐ。