北史卷六十九 列傳第五十七 陸逞

経歴

  • 字季明,初名彦,字世雄。魏文帝がかつて「お前は温裕なのになぜ世雄と字したのか,世の雄となるのは相応しくない,兄弟にも似合わない」と述べ改名させた。逞は少くして謹密,早くから名誉あり。兄通が先に軍功で別に茅土を受けたため,父の爵中都県伯を逞に譲って襲がせた。羽林監・周文内親信として起家。当時の輩は皆驍勇で自ら達したが逞だけは文雅を兼ね備え,周文はこれにより厚遇した。大統十四年,大丞相府軍事に参与し記室を兼ねる。保定初,吏部中大夫に累遷,蕃部・禦伯中大夫を歴任,驃騎大将軍・開府儀同三司に進み司宗中大夫に遷り軍司馬に転ずる。逞は才識詳明,三府を歴任しどこでも功績を挙げた。朝廷はこれを嘉し公に進爵。
  • 天和三年,斉が侍中斛斯文略・中書侍郎劉逖を遣わし来聘した。初めて隣好を修めるにあたり盛んに使者を選び,詔により逞を使主,尹公正を副として報聘させた。逞は容止美しく辞令に優れ,敏捷で礼儀正しく斉人はこれを称賛した。近畿に戻ると詔により路車儀服で郊迎され当時の人はこれを栄とした。四年,京兆尹を拝す。郡内で豚が数子を産んだが旬日で死に,その家にはさらに豶(去勢豚)がいてこれに乳を与え諸豚を生かした,時人は逞の仁政の致すところとした。まもなく司会中大夫に遷り河州刺史に出る。晋公護は深くその才を重んじ中外府司馬として表し頗る委任した。まもなく再び司会となり納言を兼ね小司馬に遷る。護誅殺後これに坐し免官。
  • ほどなく起用され納言となる。また病により重責に堪えないとして宜州刺史となる。旧例では刺史が辞令を奉る際は鹵簿を備えるのが常であったが,逞は農繁期であるとして停止を上奏。武帝は深くこれを嘉し要望を許可しその雅操を顕彰した。逞は州で恵政を行い吏人がこれを称賛した。東宮が初めて建てられると太子太保を授かる。卒,大将軍を追贈。子操が嗣ぐ。