北史卷六十八 列傳第五十六 賀若弼

賀若弼(字輔伯)、隋の名将で高熲の推薦により呉州総管となり平陳を計画、開皇九年に長江を渡り建康を陥落させたが、韓禽と功を争い驕慢な言動から不興を買い、大業三年に誅殺された。

年表(3件)
  • 開皇九年大挙して陳を伐ち、江を渡り陳の南徐州を陥す。のち建康入城の功により上柱国・宋国公に進む
  • (開皇)十九年仁壽宮での宴で作った詩に憤怨の意が見え、帝に容認される
  • 大業三年楡林の巡幸で私議を告発され誅殺される。時に64歳

経歴(附:懷亮)

  • 字輔伯。少くして大志あり,驍勇で弓馬に長け,文を属し書記に博渉し重名あり。周の斉王憲がこれを聞き敬い記室に引き入れた。当亭県公に封,小内史に遷る。韋孝寛とともに陳を伐ち数十城を攻略,弼の計謀によるところが多かった。寿州刺史を拝し襄邑県公に改封。隋文帝が丞相の時,尉遅迥が反乱を起こすと,帝は弼が変ずることを恐れ長孫平を駅馬で遣わし代えさせた。
  • 帝受禅後,密かに江南平定の志を抱き任じうる者を求めていたところ,高熲が弼に文武の才幹ありとして推薦し呉州総管を拝し平陳の事を委ねた。弼は喜んでこれを己の任務とした。寿州総管源雄とともに重鎮となり,弼は雄に詩を贈り「交河驃騎の幕,合浦伏波の営,騏驎の上に,我ら二人の名なからしめるなかれ」と詠んだ。陳を取る十策を献上し,上はこれを善しとして宝刀を賜った。
  • 開皇九年,大挙して陳を伐つに際し弼は行軍総管。江を渡ろうとする際,酒を注いで「弼は親しく廟略を承け遠く国威を振るう。もし福善禍淫であれば大軍は無事渡れよう,もし事に違えば江魚の腹に葬られようとも死して恨みなし」と祝った。これに先立ち,弼は沿江の防人の交代の際は必ず暦陽に集結することを請うた。大いに旗幟を並べ営幕は野を覆い,陳人はこれを大兵の到来と見て国中の士馬を悉く動員した。防人の交代と知るとその衆はまた解散,以後これを常とし備えなくなった。ここに至り弼は大軍で江を渡ったが陳人は気づかなかった。陳の南徐州を襲いこれを陥し刺史黄恪を捕らえた。軍令は厳粛で秋毫も犯さず,軍士で人間で酒を沽う者があれば弼はこれを立って斬った。蒋山の白土岡に進屯すると,陳の将魯広達・周智安・任蛮奴・田瑞・孔範・蕭摩訶らが勁兵で拒戦した。田瑞がまず犯すとこれを撃退。魯広達らが相継いで進み弼の軍はしばしば退いたが,弼はその驕りと士卒の惰りを見抜き,万の将士を督励し死戦しこれを大破した。麾下の士,開府員明が蕭摩訶を捕らえて至ると,弼は左右に牽いて斬らせようとしたが摩訶は顔色を変えず,弼はこれを釈放して礼遇した。北掖門より入城。時に韓禽はすでに陳叔宝を捕らえていた。弼が至ると叔宝を呼んで見た。叔宝は恐懼して流汗し股を震わせ再拝した。弼は「小国の君が大国の卿に対し拝すのは礼である。入朝すれば帰命侯の地位を失うことはない,恐れることはない」と言った。
  • やがて弼は叔宝を捕らえられなかったことを恨み,禽と口論し刃を抜いて出た。蔡徵に叔宝の降箋を作らせ騾車に乗せて自らのもとに帰したが,この件は果たされなかった。上は弼の功を聞き大いに喜び詔を下して褒揚した。晋王は弼が期を先んじて決戦し軍命に違反したとして弼を役人に付した。上は駅馬で召し会見して「三呉を平定したのは公の功である」と迎え労った。御座に登らせ物八千段を賜り上柱国に進位。宋国公に進爵し襄邑三千戸を実封,宝剣・宝帯・金甕・金盤各一,雉尾扇・曲蓋,雑彩二千段,女楽二部を加え,また陳叔宝の妹を妾として賜った。右領軍大将軍を拝す。
  • 平陳後六年,弼はその画策を撰して上奏,《御授平陳七策》と名づけた。上はこれを見て「公は我が名を発揚しようとするが,私は名を求めない,公は自ら家伝に載せよ」と言った。七策とは:一に広陵に一万の兵を駐屯させ交代往来させる,陳人は初めは警戒するが後には常態とし大兵が南伐しても疑わなくなる。二に兵を江辺で時々狩猟させ人馬を喧噪させる,兵が江に臨んでも陳人は狩猟と思う。三に老馬で陳の船を多く買い匿し,瀆内に弊船五六十艘を買う,陳人はこれを見て内国に船なしと思う。四に揚子津に葦荻を積みその高さで艦を隠し,大兵が渡ろうとする時に密かに瀆を江に通じさせる。五に戦船を黄色に塗り枯れた荻と同色にし陳人は事前に気づかない。六にまず京口の倉儲を取り速やかに白土岡に拠り兵を死地に置く,故に一戦で克つ。七に臣は勅を奉じ兵は義をもって挙げる,京口平定の際俘虜五千余人に糧を給して悉く釈放し勅書を付して別道で宣諭させた。これにより大兵が江を渡ると草が風に靡くように服し,十七日の間に南は林邑,東は滄海,西は象林に至るまで悉く平定された。
  • 右武候大将軍に転じる。弼は当時貴盛で位望隆重,その兄隆は武都郡公,弟柬は万栄郡公となりともに刺史・列将であった。弼の家の珍玩は数え切れず,綺羅を曳く婢妾数百人,当時の人はこれを栄とした。
  • 弼は自らの功名が朝臣の右に出ると考え常に宰相を自任していた。楊素が右僕射となると弼は依然将軍のままで甚だ不平をあらわにし,これにより免官,弼の怨望はますます甚だしくなった。数年後,弼は獄に下され,上は「私は高熲・楊素を宰相としたが,汝は常にこの二人を飯を食うだけの者と言っているのはどういうことか」と問うた。弼は「熲は臣の故人,素は臣の舅子,臣は皆その人となりを知っており確かにその言があった」と答えた。公卿は弼の怨望を奏し罪は死に当たるとしたが,上は「臣下は法を守るべきで動かせない,公は自ら活きる道を求めよ」と言った。弼は「臣は至尊の威霊を頼み八千の兵で江を渡り,ただちに陳叔宝を捕らえた,密かにこれをもって活きることを望む」と答えた。上は「これはすでに格外の酬賞をした,どうしてこれを追論するのか」と言った。弼は「平陳の日,諸公はこれを許すべきでないと議論した。心を尽くし国のためにし,すでに格外の重賞を蒙った,今また格外の生を望む」と言った。上は数日ためらい,その功を惜しんで特に除名するに留めた。歳余りで爵位を復した。上もまた弼を忌み再び任用しなかったが,宴賜のたびに厚遇した。
  • 十九年,上が仁寿宮に行幸し王公を宴した際,弼に五言詩を作らせると詞意は憤怨に満ち,帝は見てこれを容認した。翌年春,弼はまた罪を得て禁所にあったが自若として詩を詠んだ。上はこれを責めて「人には性善で行悪な者がいる,公の悪行は行いとともにある。三つの太猛がある。嫉妬心の太猛,自是非人心の太猛,無上心の太猛,昔周朝にあって他人の子に反逆を教えた,この心は終に改まらないのか」と述べた。他日,上は侍臣に「初め平陳を計画していた時,弼は高熲に『陳叔宝は平定できよう,高鳥尽きて良弓蔵められることにならぬか』と言い,熲は『必ずそうはならない』と答えた。平陳後,弼は内史の職を求め,また僕射を求めた。私は熲に『功臣は勲官を授けるべきで朝政に関与させてはならない』と言った。弼はのち熲に『皇太子は自分に対し口から出たことは耳に入る,尽くさぬことはない,公は久しく何を必ずしも弼の力を得ないでいられようか,何をそんなにためらうのか』と言った。意は広陵の鎮守を図り,また荊州総管を求め,ともに乱を起こす場所であり,その意は終に改まらなかった」と語った。
  • のち突厥が来朝し,上が射を賜うと突厥は一発で的に中てた。上は「弼でなければこれに当たれる者はない」と言い弼に命じた。弼は再拝して「臣もし赤誠をもって国に奉ずるならば一発で的を破るはず,そうでなければ中たらない」と祝い,一発で的に中てた。上は大いに喜び突厥を顧みて「この人は天が我に賜うたものだ」と言った。
  • 煬帝が東宮にあった時,かつて弼に「楊素・韓禽・史万歳の三人は皆良将だが優劣は如何」と問うと,弼は「楊素は猛将で謀将にあらず,韓禽は闘将で領将にあらず,史万歳は騎将で大将にあらず」と答えた。太子が「それなら大将は誰か」と問うと,弼は拝して「ただ殿下の選ぶところ」と答え,その心は自ら大将を任じるつもりであった。煬帝嗣位後,ますます疎まれ忌まれた。大業三年,駕に従い北巡し楡林に至った。時に大帳を設け下に数千人が座れるようにし,突厥の啓民可汗を招いて饗した。弼はこれを過度に贅沢と考え,高熲・宇文幹らと私議しその得失を論じたところ,人に告発されついに誅殺された,時に64歳。妻子は官奴婢となり一族は辺境に流された。
  • 子懐亮,慷慨で父の風あり。柱国の世子として儀同三司を拝したが,弼のために奴となり,ほどなく誅死した。