経歴
- 字定東。生誕時,周文が寧の家に親臨して祝い,折しも斉軍を破った直後であったため定東と字した。聡悟で器量あり,初め勲臣の子として義安県侯に封。周閔帝受禅後,稍伯下大夫・開府儀同三司を授かり丹陽郡公に改封。明帝の時,左武伯中大夫。勣は経学未熟として辞職し露門学への遊学を願い出,帝は嘉して本官のまま就学を許した。斉王憲が勣の妹を妃に納れ恩礼はいよいよ厚くなった。武帝嗣位後,渭源の焼当羌が飢饉で乱を起こすと勣の才略により渭州刺史に任じられ,恵政多く華夷ともに悦服,祥瑞も多かった(烏鼠山の下から泉が湧出,白烏・白狼の瑞,人々が「玉漿泉」と呼んだ泉の逸話,謡「我有丹陽,山出玉漿…」が残る)。父の喪に礼を過ぎるほど哀毀し,楚国公を襲爵。大象二年,利州総管に累遷,のち柱国。隋文帝が丞相の時,益州総管王謙が反乱し勣は籠城固守。謙の将達奚惎らは土山を築き城壁に七十余の穴を穿ち,川を堰き止め水攻めにしたが,勣は二千に満たぬ兵で四十日昼夜防戦,梁睿の援軍到来で賊は撤退した。上柱国を授かり一子を中山県公に封。開皇中,夏州総管。帝は勣の家門の栄盛と勲功を重んじ,のち漢王諒が勣の娘を妃に納れ恩遇はいよいよ厚くなった。七年,利州守備の功を追賞し始州臨津県邑千戸を賜る詔。十年,病により京師に召還され,諸王が勣の邸に至り中使の見舞いが絶えなかった。卒,諡は襄。
- 子賢が嗣ぐ。顕州刺史・大理少卿・武賁郎将を歴任。次子毓。