北史卷六十七 列傳第五十五 令狐整

令狐整(字延保)、敦煌の人。西魏の混乱期に張保の反乱を鎮め河右の忠義を示した功臣。豐州刺史として善政を敷き、宇文護の専権にも距離を置いて無事を保った。子の令狐熙も地方長官として名声を得た。

年表(2件)
  • 開皇四年584年子の令狐熙が滄州刺史として治績を挙げ、上(隋文帝)の洛陽行幸時に朝見する
  • 開皇八年588年令狐熙が河北道行台度支尚書に転じる

河右の忠義

  • 敦煌の人、本名は延。代々西方の名門であった。曾祖の令狐嗣、祖父の令狐紹安はともに郡守を務め、良吏として知られた。父の令狐虯は早くから名徳で知られ瓜州司馬・敦煌郡守・郢州刺史を歴任し長城縣子に封じられたが、魏の大統末に自宅で没した。周文帝はその死を悼み、使者を派遣して喪事を監護させ郷人に墳墓を営ませ、龍驤將軍・瓜州刺史を追贈した。
  • 整は幼くして聡明で沈着な見識を備え、学芸・騎射ともに河右で評判であった。刺史の魏東陽王元榮に主簿として招かれ蕩寇將軍を加えられた。整は立ち居振る舞いが端正で対応も見事であり、謁見のたびに州府の注目を集めた。榮はその声望を評価し「令狐延保は西州の名望家、大成すべき人物、州郡の一職に留められるはずもない、一日千里を走る器量なのだから、いずれ庶務を任せて任せきりにするつもりだ」と僚属に語った。
  • まもなく孝武帝が西遷し河右が動揺したが、榮は整に守りを固めさせ州境は安定を保った。鄧彥が瓜州を私物化し代官交代を拒んだ際、整は開府張穆らと密かに朝廷の使者に応じ、彥を捕らえて京師に送った。周文帝はその忠節を評価し都督に上表した。
  • その後、城の民張保が刺史成慶を殺害し涼州刺史宇文仲和と結んで反逆、河西の制圧を謀った。晉昌の呂興も郡守郭肆を殺し郡を保に呼応させた。保らは反乱に先立ち整の忠義を恐れていたが、成慶殺害後は整も除こうとした。しかし人望が篤く配下の離反も恐れて手を出せずにいた。表向きは礼を尽くしつつ内心では整を忌避し、整も表向き従うふりをしながら密かに保を除く機会を狙った。
  • 整は密かに保に近い者を通じて「郡と仲和は唇歯の関係にあり、東の軍が涼州に迫れば孤立して敵しきれない、鋭い軍を分けて救援すべきだ、二州が合力すれば東軍を制せる」と説かせ、保はこれに同意したが誰を派遣すべきか迷った。整はさらに「成否は人選にかかっている、選び方を誤れば覆滅を招く、令狐延保は文武を兼ね軍を統率する器量がある、将とすれば必ず成功する」と説かせた。保はこれを容れ、整の父兄が城中に人質としているため疑わず整を出陣させた。
  • 整は玉門郡に至ると豪傑を集め保の罪を説いて馳せ戻り城を襲った。まず晉昌を平定し呂興を斬り、進んで保を攻めた。州人は整の威名に服し保を捨てて帰順、保はついに吐谷渾へ逃げた。人々は整を刺史に推挙しようとしたが、整は「もともと張保の逆行によって州全体が不義に陥ったが、今は心を一つにして凶徒を除くことに努めているのだ、もし互いに推薦し合えば再び効を求める者による禍を招きかねない」と辞退し、波斯人の張道義に州事を代行させ、詳細を朝廷に報告した。詔により申徽が刺史に任じられ、整は召されて壽昌郡守を拝命し襄武縣男に封じられた。
  • 周文帝は整に「卿は早くから殊勲を立てたが官位はまだそれに見合わない、これから卿とともに天下を平定し富貴を共にしよう」と述べ、瓜州義首の地位を立てさせた。整は国難がまだ収まらぬことから一族を挙げて力を尽くすことを願い、郷親二千余人を率いて入朝し軍に従った。整は撫御に長け自ら質素を旨として困難を共にしたため、士衆は旅の苦労を忘れて力を尽くした。周文帝は「卿の遠祖は忠義を立てて今に至った、まさに善を積んで慶を後世に残す家系だ」と語った(整の遠祖、漢の建威將軍令狐邁は王莽に屈せず、その子令狐稱は河右に避難したという故事による)。驃騎大將軍・開府儀同三司に累進し侍中を加えられた。周文帝はさらに「卿の勲功は婁敬・張良にも劣らず、義は骨肉にも等しい、その端正な立ち居振る舞いは人の模範とすべきだ」と述べ、宇文氏の姓と「整」の名を賜った。宗人二百余戸もあわせて宗籍に列した。

豊州の善政と評価

  • 周孝閔帝踐阼後、司憲中大夫を拝命し法の執行が公平であることで当時称えられた。彭城縣公に進爵。梁の興州刺史席固が州を挙げて帰順した際、周文帝は固を豐州刺史としたが、固は久しく在任するうちに梁の法制になお囚われ施政に欠陥が生じていた。朝議は密かに代えたいと考えたが人選に苦慮し、まず整を権鎮としてその地に送り、固に代わる方策を委ねた。整は威と恩を広く布いて身を粉にして人心をつかみ、数か月のうちに州府の風儀を改めた。そこで整を豐州刺史に任じ、固は湖州に移された。
  • 豐州はもともと民が集住しておらず賦役の負担が偏っていたため、整は治所を武當に移すよう請願し詔で許可された。移住者を励まし迎え入れると、まもなく城府の体制が整った。固の部曲の多くが整のもとに留まることを望んだが、整は朝廷の制度を理由に許さず、部曲は皆涙を流して去っていったという。整の任期が満ちて後任が到着すると、吏民は名残を惜しみ老幼を問わず遠近から見送りに来て数日も出発できなかったほどで、その人心掌握ぶりが伺える。
  • 禦正中大夫を拝命し中華郡守として出て同州司会に転じ、始州刺史に遷った。整は世情に通じ政術に明るく、恭謹廉慎で常に驕りを戒め、内外の要職を歴任していずれも高い評価を得た。大將軍に進位。晉公宇文護が初めて執政した際、整を腹心にしようとしたが整は辞退し護の不興を買った。護が誅殺された際、その一派に連座した者は次々と処罰されたが整だけは無事であった。当時の人々はその先見の明を称えた。没した。本官のほか四州諸軍事・鄜州刺史を追贈され諡は襄。子の令狐熙が跡を継いだ。

令狐熙(子・熙)――地方統治の名声

  • 字は長熙。厳粛な性格で雅量があり、自室にあっても常に威儀を崩さなかった。むやみに賓客を通さず、交わる相手は必ず一時の名士に限った。書物を博覧し、とりわけ三礼に通じ、騎射に長け音律にも詳しかった。通経の資格で吏部上士として仕官を始め夏官府都上士に転じ、いずれも能吏として評判であった。
  • 母の喪により去職し喪に耐えられないほど衰弱したため、父は「大孝は親を安んじることにある、義として後嗣を絶やしてはならない、私はまだ健在で汝も唯一の跡取りなのに、なぜそこまで身をやつして私を心配させるのか」と戒め、熙は以後粥を摂るようになった。服喪明けに少駕部となったが、再び父の喪に服す際は杖なしでは起き上がれないほど衰弱し、その哭泣の声を聞いた者は皆涙したという。
  • 河陰の役では墨衰(喪服のまま出仕する装束)で公務に従い、職方下大夫を拝命し彭城縣公を襲爵した。武帝の齊平定に際し留守の功で儀同に進む。司勲・吏部の両曹中大夫を歴任していずれも高い評判を得た。隋文帝受禅の際、熙は本官のまま納言事を代行した。司徒左長史に転じ上儀同を加えられ河南郡公に進爵。吐谷渾が辺境を侵した際、元帥元諧の行軍長史として討伐に従い功により上開府に進んだ。滄州刺史を拝命し数年在任、教化が大いに行き渡り良二千石(優れた地方長官)と称された。
  • 開皇四年(584年)上が洛陽に行幸した際、熙が朝見に赴くと吏民は転任を恐れて道で泣き、帰任すると民は境まで出迎え歓声で満ちた。在任中には白烏・白麞(白い鹿の一種)・良質の麦が獲れ、甘露が庭前の柳の木に降ったという瑞祥も伝わる。開皇八年(588年)河北道行台度支尚書に転じ、吏民は転任を惜しんで碑を建てて頌徳した。行台が廃されると鴻臚卿に累進、さらに本官のまま吏部尚書を兼ねて五曹尚書事を判じ、民政に長けていた。上はこれを深く信任し、上が泰山に祀りを行い帰途汴州に立ち寄った際、その繁栄と同時に奸悪な者も多いことを憂え、熙を汴州刺史に任じた。着任すると遊食を禁じ工商を抑え、無許可の開門を取り締まり、船で暮らす旅商人は郭外に留め、星のように点在する住民は集落単位でまとめ、寄留者は本籍に戻させ、滞った訴訟も次々と裁決し、命令はよく行き渡った。上はこれを喜び侍臣に「鄴都は天下でも治めにくい地、相州刺史豆盧通に熙のやり方を学ばせよ」と述べた。その年の朝見では治績が天下随一と評価され帛三百匹を賜り、その功績が天下に布告された。
  • 嶺南で夷族の反乱が相次いだため、桂州総管・十七州諸軍事に任じられ、便宜従事と刺史以下の官の承制補任を許され帳内五百人を給された。帛五百匹を賜り家族の送り届けも手配され、武康郡公に改封された。熙が任地に着くと恩信を広く布き、渓洞の渠帥らは「これまでの総管は皆武威で脅していたが、今度は自ら手紙を書いて諭してくださる、逆らってよいものか」と語り合い、次々と帰順した。それまで州県は乱れがちで長吏の多くが赴任を渋り総管府に政務を委ねていたが、熙はこれを一新して城邑を築き学校を設け、人々も夷人も感化された。
  • 当時、寧猛力という者がおり、陳の後主と同じ日に生まれ自ら貴相があると称し、陳の時代に既に南海に勢力を持っていた。陳平定後、文帝は彼を懐柔し安州刺史に任じたが、驕り険阻な地を頼んで参謁することもなかった。熙は自ら手紙を書いて交誼の心を示し、母の病には薬を贈った。猛力はこれに感じ入り府に参謁し以後非法を働かなくなった。熙は州県に同名が多いことに気づき、安州を欽州、黄州を峰州、利州を智州、德州を歡州、東寧州を融州とそれぞれ改称するよう上奏し、上はこれを許した。数年の在任後、老齢と病を理由に辞職を願い出たが、優詔で許されず医薬を賜った。
  • 交州の梁の首領李佛子が入朝するよう詔されると、佛子は反乱を企て仲冬まで猶予を求めた。熙は懐柔策として承知したが、これを不服とする訴えが朝廷に届き、佛子の謀反の知らせも重なって上は大いに怒り、熙を鎖につないで召還させる使者を送った。熙は元来剛直な性格で鬱々として志を得ぬまま、永州に至って憂憤のうちに病没した。上の怒りは解けず、家財も没収された。後に行軍総管劉方が佛子を捕らえて京師に送った際、熙が実際には賄賂を受け取っていなかったことが判明し、上はこれを悟って熙の四人の子に出仕を許した。末子の令狐德棻が最も知られる。
  • 整の弟令狐休は幼くして聡明で文武の才があった。整とともに挙兵して張保を逐い帥都督を拝命した。後に中外府樂曹参軍となった。当時の功臣の多くが本州の刺史となる中、晉公宇文護は整に「公の勲望なら本州を得るべきだが、朝廷は公の力を頼りとして遠く出すわけにいかない、一族の中で誰かに栄誉を与えるべきだ」と述べ、休を敦煌郡守に任じた。十数年在任し治績を挙げ、合州刺史として没した。