北史卷六十七 列傳第五十五 崔彥穆

出自と経歴

  • 字は彥穆、清河東武城の人。魏の司空安陽侯崔林の九世孫にあたる。曾祖の崔顗は後魏の平東府諮議参軍。祖父の崔蔚は従兄の司徒崔浩の禍難を避け南朝に亡命し、宋に仕えて給事黄門侍郎・汝南義陽二郡守を務めた。延興初め(471年頃)再び魏に帰り潁川郡守を拝命し、そのまま定住、後に郢州刺史として没した。父の崔幼は永昌郡守で終わったが、隋の開皇初め、献皇后(独孤氏)の外曾祖にあたることから上開府儀同三司・新州刺史を追贈された。
  • 彥穆は幼くして聡明さが際立った。魏の吏部尚書隴西李神儁は人物を見抜く目があり、彼を見て「王佐の才である」と嘆じたという。永安末(530年頃)司徒府参軍事を拝命し、大司馬従事中郎に累進した。孝武帝の西遷には従うことができなかった。
  • 大統三年(537年)兄の崔彥珍とともに成皋で挙兵し、滎陽を攻め落として東魏の郡守蘇淑を捕らえた。さらに郷里の郡王元洪威とともに潁川を攻め刺史李景遺を斬った。滎陽郡守に任じられ千乗縣侯を賜った。大統十四年(548年)散騎常侍・司農卿を拝命。軍国の草創期で政務が多忙な中、周文帝は彥穆を幕府に招き文書を掌らせた。於謹の江陵討伐にも本官のまま従軍し平定に加わった。
  • 周の明帝の初め、驃騎大將軍・開府儀同三司に進む。まもなく安州刺史・十二州諸軍事総管を拝命。禦正大夫として入朝。陳が隣好を求めた際、詔により彥穆が使者となった。彥穆は風雅で度量があり老荘の玄言を解し談笑に巧みで、江南でも高く評価された。戶部中大夫に転じ公爵に進爵。天和三年(568年)齊への聘問から戻り金州刺史・七州諸軍事総管を拝命し大將軍に進位。まもなく小司徒に召された。
  • 宣帝崩御後、隋文帝が輔政すると三方で挙兵が起こり、彥穆は行軍総管として襄州総管王誼とともに司馬消難を討った。荊州に軍を進めた際、総管獨孤永業に異心があると見て捕らえて処刑した。事が平定されると隋文帝は王誼を京師に召還し、彥穆を襄州刺史・六州諸軍事総管に任じ上大將軍を加え東郡公に進爵させた。まもなく永業の家が冤罪と認められると彥穆は連座して除名されたが、まもなく官爵を回復した。開皇元年(581年)没した。子の崔君綽が跡を継いだ。
  • 君綽は落ち着いた人柄で経史を博覧し、父の風格を受け継いだ。大象末(580年頃)丞相府賓曹参軍を務めた。君綽の弟崔君肅は道王の侍読として仕官し、大象末には潁川郡守となった。