北史卷六十五 列傳第五十三 蔡祐

字は承先、陳留圉の人。周文帝に「子のように」重んじられた忠勇の将で、河橋の戦いでの奮戦や芒山の戦いで「鉄の猛獣」と恐れられた武勇で知られる。功を誇らず節倹を旨とし、死の日には家に余財がなかった。柱国大將軍を追贈され諡は莊。

年表(2件)

忠勇の士

  • 字は承先。その先祖は陳留圉の人。曾祖の蔡紹は夏州鎮将で高平に移り住んだ。父の蔡襲は西州で名を知られた。魏の正光中、万俟醜奴が関中を乱した際、襲は賊に背いて洛陽に帰順し齊安郡守を拝命。孝武帝の西遷に際し西に脱出、平舒縣伯を賜り岐州・雍州の刺史を歴任した。
  • 祐は聡敏で品行があった。父襲が賊から東帰した時、祐は十四歳で母に孝を尽くしたことで知られた。成長後は膂力があり、周文帝が原州にいた頃に帳下親信として召された。夏州への遷任に伴い都督となった。侯莫陳悅が賀拔岳を害すると諸将は周文帝を迎え、周文帝が向かおうとした際、夏州の首望彌姐元進らが密かに異心を抱いていた。周文帝はこれを察し元進らを召して謀議させ、目配せで祐を退出させた。祐は甲を着け刀を持って直入し、元進を叱って斬り、その党もあわせて誅殺した。一座は皆震え上がった。これにより諸将は結束して悅を討つ盟約を結び、周文帝は祐を重んじて「今より汝を子とする、父として仕えよ」と述べた。
  • 潼関で孝武帝を迎え、これまでの功により萇鄉縣伯に封じられた。竇泰の捕縛、弘農奪還、沙苑の戦いにも功を立て平東將軍・太中大夫を授かった。河橋の戦いでは祐が馬を降りて徒歩で戦い、左右が急な事態に備え乗馬を勧めても、祐は「丞相は私を子のように養ってくれた、今日どうして命を惜しもうか」と怒り、左右十余人と大声で叫びながら斬り込んで多数を殺傷した。援軍がないと見た敵に十重以上に包囲されると、祐は弓を引き絞り四方を防いだ。東魏は厚い鎧と長刀の兵を選んで祐を狙わせ、三十歩まで近づいたところで左右が射るよう勧めたが、祐は「我らの命はこの一矢にかかっている、無駄撃ちはできぬ」と待ち、十歩まで引きつけて射て顔面に命中させ弓弦の音とともに倒し、槊で刺し殺した。敵はやや退き、祐は徐々に引き上げた。この戦は西軍全体としては不利で周文帝も既に撤退していたが、祐は弘農で夜に周文帝と合流、周文帝は「承先、お前が来てくれてもう心配はいらない」と字(あざな)で呼びかけ、興奮のあまり眠れず祐の膝を枕にしてようやく落ち着いたという。功により公爵に進み京兆郡守となった。

晩年と評価

  • 高仲密が北豫州を挙げて帰順した際、周文帝の援軍に従い齊神武と芒山で対峙した。祐は明光鉄鎧を着けて向かうところ敵なしの活躍を見せ、齊人は「これは鉄の猛獣だ」と恐れて避けたという。青州・原州二州刺史を歴任し大都督を拝命。父の喪に服すため辞職を願ったが許されなかった。開府儀同三司に累進し侍中を加えられ大利稽氏の姓を賜り懷寧郡公に進爵。六官制の整備で兵部中大夫を拝命。周文帝の病の折には晉公宇文護・賀蘭祥らとともに侍疾し、周文帝の崩御に際しては悲しみのあまり病を得た。
  • 周孝閔帝踐祚後、少保を拝命し尉遲綱とともに禁兵を統括した。当時、帝は司会李植らを信任し晉公宇文護の暗殺を謀っていたが、祐は繰り返し泣いて諫めても聞き入れられず、まもなく帝は廃された。明帝が公子であった頃から祐と特に親しく、即位後は礼遇がいっそう厚くなり小司馬を加えられた。御膳に珍味があれば必ず祐に賜り、群臣の宴でも祐だけが遅くまで留められ、時に夜更けまで松明を連ねて音楽を奏でながら邸宅まで送らせたという。祐は過分の待遇を常に恐れ、婚姻についても権門と結ぶことを望まなかった。原州の権鎮を経て宜州刺史に任じられたが赴任前に原州で没した。
  • 祐は若い頃、同郷の李穆と無位の身分ながら並び称され「大丈夫たるもの功名を立てて富貴を得るべき、いつまでも貧賤にとどまるものか」と語り合って大笑いしたという。後にその通りとなった。従軍の際には常に士卒の先頭に立ちながら、軍が戻り諸将が功を争っても祐は最後まで争わなかった。周文帝は「承先は口では功を語らないが、私が代わってその功績を語ろう」と述べた。節倹な性格で得た俸禄は宗族に分け与え、死の日には家に余財がなかった。柱国大將軍・原州都督を追贈され諡は莊。子の蔡正が跡を継いだ。
  • 祐の弟蔡澤は学を好み才幹があった。雲州刺史となったが、司馬消難に従わなかったことから殺害された。