北史卷六十四 列傳第五十二 韋瑱

経歴

  • 京兆杜陵の人で、三輔の名家。曾祖の韋惠度は姚泓の尚書郎で、劉義真に従って長江を渡り宋に仕え順陽太守・行南雍州事となった。後に襄陽から魏に帰順し中書侍郎を拝命、洛州刺史を追贈された。祖父の韋千雄は略陽郡守、父の韋英は代郡守で兗州刺史を追贈された。
  • 瑱は幼くして聡明で早熟の器量を持ち、太尉府法曹参軍から諫議大夫に累進した。周文帝が丞相のとき長安縣男に封じられ、行台左丞に転じ南郢州刺史となり、再び行台左丞を務めた。明察で幹局があり左轄(左丞)に二度就いたことは当時の評判となった。弘農奪還・沙苑の戦いに従い衛大將軍・左光祿大夫を加えられ、河橋の戦いにも従って子爵に進んだ。
  • 大統八年(542年)齊神武が汾・絳を侵した際、瑱は周文帝に従いこれを防いだ。軍の帰還後は本官のまま蒲津関を鎮め中潬城主を兼ね、鴻臚卿を歴任、名家の出であることから郷兵も統べ帥都督を加えられ散騎常侍に進んだ。
  • 魏恭帝二年(555年)宇文氏の姓を賜り、三年(556年)瓜州刺史となった。瓜州は西域と通じ蕃夷の往来が多く、歴代刺史は賄賂を受け取り胡族の侵入も防げなかったが、瑱は清廉で武略もあり贈り物を一切受け取らなかったため、胡人はその威を畏れて侵さず、公私ともに安定した。
  • 周孝閔帝踐祚後、平齊縣伯に進爵。任期満了で帰京する際、官吏・民は老幼を問わず名残を惜しみ十数日も見送りが続いたという。明帝はこれを嘉して侍中・驃騎大將軍・開府儀同三司を授けた。没後、岐州・宜州の刺史を追贈され諡は惠。さらに公に追封され、子の韋峻が跡を継ぐよう詔された。
  • 峻は車騎大將軍・儀同三司に至った。峻の子韋德政は隋の大業中(605-618年)給事郎。峻の弟に韋師がいる。

韋師(字公穎)――経歴

  • 若くして慎み深く至誠の性質があった。初めて学問を始め『孝経』を読んだ折、書を置いて「名教の極みはここにある」と嘆じたという。若くして父母の喪に遭い、礼を尽くして喪に服し孝行者として郷里に知られた。
  • 成長後は経史をひろく渉猟し、とりわけ騎射に長けた。周の大塚宰宇文護に中外府記室として登用され賓曹参軍に転じた。師は諸蕃の風俗や山川の険易に通じ、夷狄の朝貢があると必ず師が接待し、その国の風習を手のひらを指すように論じたため、夷人は驚嘆し敬服した。
  • 齊王宇文憲が雍州牧となると主簿に引き立てられ、武帝が親政を執るようになると少府大夫に転じた。齊平定後は詔により山東の安撫にあたり、賓部大夫に転じた。
  • 隋文帝受禅後、吏部侍郎を拝命し井陘侯を賜った。河北道行台兵部尚書に遷り、詔を奉じて山東・河南十八州の安撫大使となった。奏事が上意にかない、晉王楊広の司馬を兼ねた。
  • 族人の韋世康が吏部尚書として師と競い合う仲であったが、楊広が雍州牧のとき盛んに邸宅を構え、司空楊雄・尚書左僕射高熲を州都とし師を主簿に引き立て、世康の弟世約は法曹従事となった。世康は世約が師の下風に立つことを恥じて怒り「なぜ従事などになったのか」と杖打った。
  • 後に上が醴泉宮に行幸した折、上僕射高熲・上柱国韓擒らとともに臥内に召され宴を賜り、旧事を語り合って笑楽とした。陳討伐では本官のまま元帥掾を兼ね、陳の府庫の管理を委ねられたが少しも私せず清廉と評された。後に上は長寧王儼のために師の娘を妃に迎え、汴州刺史に任じて政績を挙げ、任地で没し諡は定。
  • 師の同族に韋暮という者がおり、周に仕え内史大夫となった。隋文帝の初め、定策の功により上柱国に累進し普安郡公に封じられ、開皇初め蒲州刺史として没した。