北史卷六十四 列傳第五十二 韋孝寬

京兆杜陵の人、名は叔裕、字は孝寬。西魏・北周の名将。玉璧の攻防で東魏の高歓の大軍を六十日にわたり撃退しその死を招いた功績で知られ、離間の計で斉の名将斛律明月を誅殺に追い込むなど謀略にも長けた。柱国・上柱国に至り、隋初は尉遲迥の乱を鎮圧して功を挙げたが同年に薨じた(享年七十二、諡は襄)。

年表(15件)

出自と若き日

  • 名は叔裕、字は孝寬。京兆杜陵の人で、若くして字で通っていた。京兆・馮翊・扶風の三輔で代々知られた家柄。
  • 祖父の韋直善は魏の馮翊・扶風二郡の太守。父の韋旭は武威郡守を務め、建義の初め(528年頃)に大行台右丞・輔國將軍・雍州大中正となり、永安二年(529年)には右將軍・南豳州刺史に任じられ、氐族の抄掠を懐柔して帰順させた。任地で没し、司空・冀州刺史を追贈され、諡は文惠。
  • 孝寬は沈着で公正な性格で、経書・史書を広く学んだ。弱冠のとき蕭寶夤が関右で反乱を起こすと、自ら参陣を願い出て統軍に任じられた。馮翊公長孫承業の西征に従い戦功を重ね、国子博士・行華山郡事となった。
  • 侍中楊侃が大都督として潼関を鎮めた際、司馬として登用され、楊侃はその才を認めて娘を娶わせた。永安中(528-529年)には宣威將軍・給事中に任じ、山北縣男の爵位を賜った。
  • 普泰中(531年)都督として荊州刺史源子恭に従い穰城を鎮め、功により淅陽郡守。新野郡守の獨孤信と親交深く、二人とも善政で知られ、荊州の人々は「連璧」と呼んだ。
  • 孝武帝の初め(532年)都督として城を守る。周文帝が原州から雍州へ赴く際に従軍し、潼関攻略後に弘農郡守。竇泰討伐に従い左丞を兼ね宜陽の軍事を統括した。獨孤信とともに洛陽に入り陽城郡守となり、宇文貴・怡峰とともに潁川の義軍に呼応し、東魏の任祥・堯雄を潁川で破った。さらに平樂口に進んで豫州を落とし、刺史馮邕を捕らえた。河橋の戦いにも従軍したが、この戦は西軍が不利となり、辺境が動揺したため孝寬を宜陽郡事代行に任じ、のち南兗州刺史に転じた。
  • 同年、東魏の段琛・堯傑が再び宜陽に拠り、陽州刺史牛道恆に辺民を誘わせた。孝寬は間諜を使って牛道恆の筆跡を得、これを模して「帰順の意」を記した偽書を作り、焼け跡を装って段琛の陣営に送った。段琛は牛道恆を疑うようになり計略が用いられなくなったところを見澄まし、孝寬は奇兵で牛道恆・段琛らを捕らえ、崤山・澠池一帯を平定した。
  • 大統五年(539年)侯に進爵。八年(542年)晉州刺史に転じ、のち玉璧に移鎮して南汾州の事も兼ねた。山胡の劫掠を威信で鎮め、大都督に進んだ。

玉璧の攻防

  • 大統十二年(546年)、東魏の実力者高歓(齊神武)が山東の全兵力を挙げて西進、要衝の玉璧をまず攻めた。数十里に連営し城下に迫った。
  • 城南に土山を築いて攻め上ろうとしたが、孝寬は木を組んで既存の望楼をさらに高くし、多くの戦具を備えて防いだ。高歓が「お前の楼をどれだけ高くしようと、城を掘って中に入ってやる」と挑発すると、城南で地道を掘り、城北にも土山を築いて昼夜攻め立てた。
  • 孝寬は長い塹壕を掘って地道を遮り兵を配し、地道が塹に届いた敵兵をことごとく討ち取った。塹の外に薪と火種を積み、地道内の敵に投げ込んで皮製の鞴で風を送り、焼き殺した。
  • 敵は攻城車を作ったが、孝寬は布の幕を縫って空中に張り、車の攻撃を無効化した。敵は松明を竿に結び油をかけて楼を焼こうとしたが、孝寬は鋭利な鉄鉤を長柄につけて松明を遠くから搦め落とした。
  • 敵は城の四方から地道を穿ち、二十一の坑道を四方向に分けて掘り、それぞれに柱を立てて油をかけて焼き、城壁を崩そうとした。孝寬は崩れた箇所ごとに木柵を立てて防いだ。
  • 高歓は倉曹参軍祖孝征を遣わして「まだ援軍も来ないのに、なぜ降らぬのか」と勧告させたが、孝寬は「城は堅固で兵糧も十分、攻める者ほど疲れ守る者は楽をする。旬日で援軍が要るはずもない。私は関西の男子、降将にはならぬ」と拒絶した。
  • さらに「城主を斬って降った者には太尉・開国郡公・食邑一万戸・帛一万匹を与える」との懸賞を城中に射込んだが、孝寬は逆に「高歓を斬った者にも同様の賞を与える」と書いて射返した。孝寬の甥韋遷が東方で捕らえられ城下に引き出され脅されても、孝寬は動じず、士卒は感奮した。
  • 高歓は六十日にわたり苦戦し、死傷者は兵の四、五割に及んで自身も病を発し、夜のうちに撤退。その後憤りから病が篤くなり没した。
  • 魏文帝はこの功を賞し、殿中尚書長孫紹遠・左丞王悅を玉璧に遣わして労い、驃騎大將軍・開府儀同三司を授け、建忠郡公に進爵させた。

雍州の治績と汾北攻防

  • 廢帝二年(553年)雍州刺史となる。それまで一里ごとに土を盛った道標があったが雨で崩れやすかったため、孝寬はその位置に槐の木を植えて代替させ、修復の手間を省くとともに旅人が木陰で休めるようにした。周文帝がこれを見て感嘆し、諸州にも一里ごとに一本、十里に三本、百里に五本の並木を植えさせた。
  • 恭帝元年(554年)大将軍として燕公於謹とともに江陵を討って平定、功により穰縣公に封じられ、尚書右僕射に任じ宇文氏の姓を賜った。三年(556年)周文帝の北巡に伴い、孝寬は玉璧に還鎮した。
  • 周孝閔帝践祚(557年)で小司徒。明帝の初め麟趾殿学士として図籍の校訂に参与。保定初(561年頃)玉璧での功により勲州が置かれ、勲州刺史に任じられた。
  • 齊が玉璧に使者を送り互市を求めたとき、晉公宇文護は長らく音信のなかった齊が急に交易を求めてきたことを怪しみ、以前に捕虜となった皇姑・皇世母の身柄を取り戻す機会と見て司門下大夫尹公正を玉璧に遣わし孝寬と協議させた。孝寬は郊外に盛大な饗応を設けて使者を接待し、皇族の身柄について交渉、皇姑・宇文護の母などは無事に送還された。
  • 孝寬は撫御に長け間諜も孝寬のために尽力したため、齊の動静は常に朝廷より先に知れた。主帥許盆が城を東魏に売り渡した際は間諜を送って許盆を斬らせている。
  • 汾州以北・離石以南は山胡の勢力圏で往来を阻んでいたため、孝寬は河西で徒十万・甲士百人を徴発し、開府姚岳に監督させ大城を築かせた。兵の少なさを恐れる姚岳に対し孝寬は「十日で完成させれば齊が動く前に間に合う」と計算を示し、汾南で夜に多数の松明を焚いて軍営があるように見せかけ、齊軍を足止めした間に城を完成させた。
  • 天和四年(564年)柱国に進む。晉公宇文護が東征しようとした際、孝寬は長史辛道憲を通じて反対したが聞き入れられず、大軍は敗れて宜陽が包囲された。孝寬は「宜陽一城の得失は大勢に影響しないが、両国が争えば消耗する。彼らが崤東を捨てて汾北を狙えば我らの境界が脅かされる。華谷・長秋に急いで城を築くべきだ」と地図を示して進言したが、宇文護の長史叱羅協は「韋公の子孫は多いが百人に満たぬ、汾北の築城に誰を守らせるのか」と難色を示し、実現しなかった。
  • 天和五年(570年)鄖国公に進爵し食邑を通算一万戸に増した。この年齊は宜陽の囲みを解いて汾北の経略に転じ築城した。齊の丞相斛律明月が汾東で孝寬に会見を求め、「宜陽で長らく戦った代わりに汾北で埋め合わせを取る」と述べたのに対し、孝寬は「宜陽は彼らの要衝、汾北は我らが放棄した地、埋め合わせにはならない。滄・瀛では大水で千里に人煙も絶えているのに、さらに汾晋の間で人民を疲弊させるのか」と諫めた。
  • 孝寬の参軍曲岩は占卜に通じ「来年、齊の朝廷は大いに殺戮を行うだろう」と予言した。孝寬はこれを利用し「百升飛上天、明月照長安」(百升=斛、すなわち斛律明月を指す)という謠を作らせ、間諜に鄴へ広めさせた。祖孝征がこれをさらに潤色し、結局斛律明月は誅殺された。

平齊三策と晩年の功業

  • 建德以後、武帝が齊平定を志すと、孝寬は三つの策を上疏した。
  • 第一策は、隙を逃さず一気に大軍を動かし、軹関から進んで陳と挟撃し、広州の義軍を三鵶に、山南の精兵を河沿いに、北山の稽胡を并・晉の道の遮断にあて、諸方の軍を糾合して百道並進すべきとするもの。
  • 第二策は、まだ大挙する条件が整わなければ陳と分担して屯田を広め、精鋭を編成し、齊が東南の陳との対峙で疲弊するのを見計らい、辺境から奇兵を出しては引くことを繰り返して国力を消耗させ、齊の内部崩壊を待つべきというもの。
  • 第三策は、周の国力が優勢とはいえ南・西の平定を終えたばかりで東の齊にまだ手が回らない現状を踏まえ、当面は和好を保ち通商を通じて国力を養い、機を見て動くべきというもの。
  • 上疏を受け武帝は小司寇淮南王元偉・開府伊婁謙らを齊に厚礼で派遣した。その後大挙して二度の出征で山東を平定しており、結果は孝寬の策どおりとなった。
  • 孝寬はたびたび高齢を理由に致仕を願い出たが、武帝は天下未平を理由に許さなかった。
  • 建德五年(576年)帝が東伐の途中で玉璧に立ち寄り、防御の設備を見て深く感嘆した。孝寬は齊の内情に通じているとして先鋒を願い出たが、帝は玉璧の要衝を守れるのは孝寬しかいないとして許さなかった。趙王宇文招が稽胡を討つ際には行軍総管として華谷を包囲・攻略し四城を落とした。武帝が晉州を平定すると孝寬は旧鎮に戻された。
  • 帝の凱旋の際、再び玉璧を訪れ「昔から老人は多智で軍謀に長けるというが、朕は若い者たちと一挙に賊を平らげた、公はどう思うか」と問うと、孝寬は「臣は今や老いておりますが、誠意だけはございます。ただ若壮の頃には先朝のために力を尽くし、関右の平定に貢献いたしました」と答え、帝は大いに笑った。孝寬はそのまま帝の御駕に従って帰京し、大司空を拝命、延州総管に出て上柱国に進んだ。
  • 大象元年(579年)徐・兗など十一州十五鎮の諸軍事・徐州総管に任じられ、行軍元帥として淮南を攻略。郕公梁士彥に広陵、宇文亮に黄城を攻めさせ、自らは寿陽を攻めて陥落させた。淮南到着当初から密かに帰順を申し出る者が多かったが、五門の地は要害で陳軍が堤を切って水を放てば渡河路が絶たれるため、孝寬は速やかに兵を分けて確保した。陳の刺史呉明徹が実際に堤を決壊させたが間に合わず、陳軍は退却し江北は完全に平定された。
  • 帰還の途中、豫州で宇文亮が反乱を起こし数百騎で孝寬の陣営を襲おうとしたが、事前に察知していた孝寬は備えを固めて防ぎ、逃げた宇文亮を追撃して捕らえた。淮南平定の功により子の一人が滑国公に封じられた。

尉遲迥の乱平定

  • 宣帝が崩じ(580年)隋の文帝が輔政に就くと、それまで相州総管であった尉遲迥に代わり孝寬が任命された。小司徒叱列長叉を相州刺史に任じ先に鄴へ赴かせたが、孝寬が朝歌に着くと尉遲迥は大都督賀蘭貴を送って様子を伺わせた。孝寬は病と称して行軍を緩め、医薬を求める使者を装って情勢を探らせた。湯陰に着いた頃、逃げてきた叱列長叉と出会い、また孝寬の甥で魏郡守の韋藝も郡を捨てて南走してきたことから事態を悟り、急ぎ引き返した。橋や道を破壊し駅馬をすべて連れて随行させ、駅将には「蜀公(尉遲迥)が来るから酒肴と飼料を多く用意しておけ」と命じた。尉遲迥が儀同梁子康に数百騎で追わせたが、駅の供応の豪華さに惹かれて追撃が滞り、追いつけなかった。
  • 洛陽の守りが手薄で河陽の鎮兵が皆関東出身の鮮卑兵であることから、尉遲迥が先に拠れば禍が大きいと勧める者があり、孝寬は河陽に入って守りを固めた。河陽城内の鮮卑兵八百人は家族が鄴にあり尉遲迥に応じようとしていたが、孝寬は密かに洛陽の官司に使いを出し、一部の兵を賜物受け取りの名目で洛陽へ送り込んでそのまま留め置くという計略で内応を防いだ。
  • 六月、関中の兵を発する詔が下り孝寬は元帥として東征、七月に河陽に至った。尉遲迥配下の儀同薛公礼らが懐州を包囲していたため兵を送って撃破。懐県永橋城の攻略を諸将が求めたが、孝寬は「小城で堅固、攻めても落ちなければ士気を損なうだけ、まず大軍を破ればこの城など問題ではない」として武陟に進み、尉遲迥の子尉遲惇を大破、惇は軽騎で鄴へ逃げた。鄴の西門豹祠の南でも尉遲迥自ら出撃してきたのを再び破り、尉遲迥は窮して自殺した。小城に籠っていた兵士は遊豫園で坑殺され、なお服さぬ者は各地で討伐された。関東は完全に平定された。
  • 十月に凱旋、十一月に薨去。享年七十二。太傅・十二州諸軍事・雍州牧を追贈され、諡は襄。

人物と子孫

  • 孝寬は辺境で長年強敵と戦い、その用兵は事前には理解されなくとも成功すれば人々を驚嘆させた。軍中にあっても文史を篤く好み、晩年目を患ってからも学士に読ませて聴いた。父母を早く亡くしたため兄嫂に大変よく仕え、俸禄は私財に入れず、孤児となった親族には必ず援助した。
  • 長子の韋諶が十歳のとき、魏文帝が娘を娶わせようとしたが、孝寬は兄の子で年長の韋世康を推薦し、帝はこれを喜んで娘を世康に嫁がせた。
  • 孝寬には六人の子があり、韋總・韋壽・韋霽・韋津が知られる。
  • 韋總――字は善会。聡敏で学を好み、驃騎大将軍・開府儀同三司・納言・京兆尹を歴任。武帝が「郷里の長官として権勢を振るわないのか」と戯れて問うと、總は「解印して賢者に道を譲りたい」と真顔で答え、帝は「戯れであった」と笑った。建德五年(576年)武帝の東征に従い先陣を切って戦い、并州で戦死、享年二十九。上大将軍を追贈され河南郡公に追封、諡は貞。建德六年(577年)柱国・五州刺史をさらに追贈された。子の国成が跡を継ぎ鄖国公を襲爵、隋文帝は開皇初め、孝寬の旧功を追録し国成に食封三千戸と租賦の収得を認めた。
  • 韋壽――字は世齡。貴公子として早くから名声があり京兆尹を務めた。武帝が齊を親征する際、後事を託された。父の軍功により永安縣侯を賜り、隋文帝が丞相のとき父が尉遲迥を平定した功により儀同三司を拝命、滑国公に進封。文帝受禅後は恆州・毛州の刺史を歴任し能吏として知られたが、病により帰還し家で没した。諡は定。仁寿中(601-604年)晉王楊昭が娘を妃に迎えた。子の保巒が跡を継いだ。
  • 韋霽――太常少卿・安邑縣伯。
  • 韋津――内史侍郎・戶部侍郎・判尚書事。