北史卷六十三 周惠達・馮景・蘇綽
周惠達
- 周惠達、字は懷文、章武文安の人。父の信は樂鄉・平舒・成平三県の令を歴任しいずれも廉能で称された。惠達は幼くして節操があり読書を好み容貌も優れていた。魏の齊王蕭寶夤が瀛州刺史となった際、惠達と河間の馮景を同じ幕下に召し厚遇した。寶夤が洛陽に戻ると惠達も従い、寶夤の西征にも従って関中入りした。寶夤が雍州刺史になると惠達は洛陽への使者に立ったが、その留守中に寶夤の謀反が京師に知れ渡り、行人であった惠達も捕らえられそうになった。惠達は密かに馳せ戻り、潼関で大使楊侃に「なぜわざわざ獣の口に入るのか」と問われたが「蕭王はきっと側近に誤られたのだろう、行けば改心させられるかもしれない」と答えた。しかし到着時には寶夤の反逆はすでに覆いようがなく、惠達は光禄勳・中書舎人に任じられた。寶夤敗北後も惠達ら数人だけが従い、寶夤は「人生の富貴には皆が節を尽くすと言うが、厄難に遭って初めて真の忠義が分かる」と惠達に語った。
- 賀拔嶽が関中大行台となると惠達はその府属となった。岳が侯莫陳悅に殺されると惠達は漢陽の麥積崖に逃れ、悅平定後は周文帝の下に帰り再び府司馬として重用された。周文帝が大将軍・大行台となると惠達は行台尚書・大将軍府司馬、文安県子。周文帝が華州に出鎮した際は後事を任され、喪乱直後で万事欠乏する中、兵仗の製造・倉糧の備蓄・士馬の簡閲に努め軍国の務めを支え朝廷に称賛された。中書令に進み公に進爵。大統四年(538年)尚書右僕射を兼ねる。同年、周文帝が魏文帝と東討する際は魏の太子の居守を輔け留台の事を総べた。芒山の敗戦で人心が動揺し趙青雀が長安子城で反した際、惠達は太子を奉じて渭橋北に出て防いだ。軍が戻ると青雀らは誅殺され、惠達は吏部尚書に拝され、のち再び右僕射となった。
- 関右の草創期以来、礼楽は久しく欠けていたが、惠達は礼官とともに旧章を損益し儀軌を整えた。魏文帝が朝賀の楽を聞いて「これは卿の功だ」と称えた。惠達は顕職にありながら廉退で人に謙り、公務に尽力し良士を抜擢したため皆に敬愛された。薨去し子の題が跡を継いだ。隋の開皇初年、前代の功績を認められ蕭国公が追封された。
馮景
- 字は長明、河間武垣の人。父の傑は伏與令。景は若くして周惠達と親交があり、ともに蕭寶夤の客となった。寶夤が尚書右僕射となると景は尚書都令史を領し、正光年間寶夤が関西大行台になると行台都令史。寶夤の敗戦後、朝廷に罪を帰すべきとの議と州に留まり功を立てるべきとの議が分かれた際、景は「兵を擁して帰らないこと自体が大罪になる」と述べたが寶夤は従わず反逆した。寶夤平定後、景の諫言が知られていたため罪は問われず洛陽に戻った。
- のち賀拔嶽に行台郎として仕え、嶽の命で斉神武の動向を探る使者に立った。神武は嶽の使者の来訪を喜び景と歃血して嶽を義兄弟と称した。景が報告すると嶽は「これは奸謀であって誠意は足りない、自古より私盟をする王臣などいない、私はよく分かっている」と見抜いた。嶽は費也頭と北で結び、東は紇豆陵伊利、西は侯莫陳悅・河州刺史梁景睿・酋渠と盟約し平涼で会同、東進しようとしたが専任を疑われることを懼れ、景を遣わし孝武帝に事情を上奏させ帝は大いに喜んだ。景は嶽の大都督府従事中郎にも任じられた。侯莫陳悅平定後、周文帝は景を京師に遣わして戦捷を報告させた。帝に西遷の意向があり関中の情勢を問われると景は西遷を勧めた。のち孝武帝迎奉の功で高陽県伯、散騎常侍・行台尚書。大統初年、涇州事を代行する詔を受け任地で卒した。
蘇綽
- 字は令綽、武功の人、魏の侍中蘇則の九世孫。代々二千石を世襲した家系。父の協は武功郡守。綽は若くして学を好み博覧強記、とりわけ算術に優れた。従兄の讓が汾州刺史となった際、周文帝が都門外で餞別し「卿の家の子弟の中で誰が任用に足るか」と問うと讓は綽を推薦し、周文帝は行台郎中に召した。一年余りの間は特に認められなかったが、諸曹の疑問はすべて綽に問うて決められ、公文の条式も綽が定め、台中はその能力を称えた。周文帝が僕射周惠達と議論した際、惠達が答えられず外で議すよう求めたので綽を召して事情を告げると綽は即座に定案を示し、惠達がこれを奏上すると周文帝は「誰と共にこの議を立てたのか」と問い、惠達が綽の名を挙げ王佐の才があると称えると、周文帝は「私もかねてより聞いていた」と述べ著作佐郎に任じた。
- 周文帝が公卿とともに昆明池に漁を見に行った途中、城西の漢の故倉地で由来を尋ねても誰も答えられず、「蘇綽は博識だから聞いてみよ」との声で綽を召すと、綽は詳しく答え、天地創造や歴代興亡の跡についても弁舌鮮やかに応答した。周文帝は夜まで馬を並べ話し込み、網を張らずに帰ったほどであった。さらに夜通し政道を論じ、綽は帝王の道と申・韓(法家)の要諦を説き、周文帝は思わず身を乗り出し夜明けまで倦むことがなかった。翌朝「蘇綽は真の奇士、私はまさに彼に政を任せる」と惠達に告げ、大行台左丞・機密参与に任じた。以後寵遇はますます厚くなった。綽は文案の程式(朱出墨入)や計帳・戸籍の法を初めて制定した。
- 大統三年(537年)斉神武が三道から侵攻した際、諸将が分兵防禦を主張する中、綽だけが周文帝と同意見で竇泰を潼関で捕らえる策に賛同した。美陽県伯。大統十一年(545年)大行台度支尚書、著作を領し司農卿を兼ねた。
六条詔書
- 周文帝が政治を刷新し富国強兵を図ろうとした際、綽はその智略を尽くしてこれを助けた。官員を減らし郷に二長を置き、屯田で軍国を支える策を進め、さらに六条の詔書を起草して施行した。以下、その要旨を記す。
- 先修心 ―― 地方長官は皆天朝の命を受け出でて国を治める、いにしえの諸侯に等しい。政治の要は自らの心を治めることにあり、心が清静でなければ思慮が乱れ是非が誤る。清心とは財貨を貪らないことだけでなく、心気を清和にし志を端静に保つことを言う。至公の理をもって民に臨めば、下の者は自ずから化される。さらに人君は形を正し躬ら仁義・孝悌・忠信・礼讓・廉平・儉約を実践し、倦むことなく明察を加えるべきで、それが民を自ずと感化する道である。
- 敦教化 ―― 天地の性の中で人が最も貴いのは中和の心と仁恕の行いを持つからだが、性は常に一定でなく教化によって移ろう。世が乱れて久しく、兵革と飢饉が続いた末に礼讓が興らず風俗も戻っていない。牧守令長は心を洗い意を改め、朝旨を奉じて教化を宣べるべきである。教化とは淳風で覆い、道徳で被い、朴素を示し、民を自然に善へ導くことをいい、孝悌・仁順・礼義を教えることで慈愛・和睦・敬讓が備わり王道が成る。
- 盡地利 ―― 人は衣食を命とし、飢寒のうちに礼讓を求めるのは坂を逆さに玉を転がすようなもの。先に衣食を満たしてから教化を施すべきで、地利を尽くすには勧課の方が要となる。農繁期には老若男女すべてが力を尽くすよう促し、怠る者は罰する。三時(春耕・夏種・秋収)を失えば穀物は得られず、単身の戸や牛のない家には有無を通じさせ、農閑期には桑や果樹・蔬菜の栽培、家畜の飼育も奨励すべきである。政は煩雑すぎても簡略すぎてもいけない、中庸をもって時宜を計るべきとする。
- 擢賢良 ―― 君は臣を得て初めて国を治められる。今の刺史県令の属吏は門資や刀筆の技のみで選ばれ、志行を問われていない。門資や刀筆に頼らず、ただ人物本位で選ぶべきで、伊尹・傅説のような賤より起った賢才の例、逆に丹朱・商均のような帝王の胤でも不肖であった例を引き、才芸より先に志行を選ぶべきと説く。人材がいないという嘆きは、探求と選抜が不十分なだけで、十室の邑にも忠信の士がいるとの孔子の言葉を引き、呂望・百里奚・寧生・管仲ら微賎から立った例を挙げて人材登用の道を説く。また官の数を省くことが善政の要であり、州郡の兼假の弊は罷めるべきとし、郷里の正長の職も慎重に選ぶべきとする。
- 恤獄訟 ―― 人には善悪の性があり賞罰の当否が人心を左右する。裁判官は五聴・証験を尽くし、情理を明らかにし、罪人を得ても矜れみを忘れず、拷問に頼らず疑わしきは軽きに従うべきとする(善・次・下の三段階を示す)。無辜を殺すよりは有罪を赦す方がよいとし、酷吏が自己保身のために厳罰主義に走ることを戒める。ただし深奸巨猾で人倫に背く者は厳罰も已むを得ないとする。
- 均賦役 ―― 財を集めるには仁による他なく、軍国の費用は多くとも徴収は公平であるべきで、豪強を優遇し貧弱を苦しめてはならない。紡績・農耕は事前の準備が要り、正長・守令が斟酌を誤れば吏は奸をなし民は怨む。徭役の配分も貧弱者に重く富強者に軽くするような不公平があってはならない。
- 周文帝はこれを深く重んじ常に座右に置き、百官にも暗誦を命じ、六条と計帳に通じない牧守令長は任官させなかった。
大誥
- 晉以来の文章が浮華に流れる風潮を改めようと、周文帝は魏帝の祭廟に際し綽に大誥を作らせ施行した。その内容は、周文帝(中興十一年時点、実質は西魏の元号)が太廟で群臣に対し、堯・舜・武丁の故事を引きつつ官職の意義を説き、太祖・烈祖・景宗・文祖・武考の功業を回顧し、東方の大乱による民の困窮を憂え、元后と股肱の臣が一体となって政を為すべきことを説く。柱国(宇文泰自身を指す)・太宰・太尉・司徒・司空・列将・庶邦列辟・卿士庶尹それぞれに向けた戒めが並び、寛厳の調和・農桑の重視・孝慈礼讓の教えなどが説かれる。天地陰陽の道と禮俗の変遷を踏まえ、魏晋以来の華美な風を改め、道徳仁義に帰し祖宗の命を保つべきことを結びとし、柱国泰以下の百官が拝礼して応え、帝が「欽めや」と応じて終わる。以後、朝廷の文筆はこの体に倣うようになった。
蘇綽の人柄と最期
- 綽は倹素で産業を営まず家に余財がなく、天下未平を自らの責と考え賢俊を博く求めては大官に推挙し、周文帝からも全幅の信頼を受けた。外出の際は署名済みの白紙を綽に預け、処置が必要な事があればその場で施行させ、帰還後に報告を受けるのみであった。綽は「国を治める道は民を慈父のように愛し、厳師のように訓えることにある」と語り、公卿との議論は昼から夜まで及び万事を掌中のごとく把握していたが、思慮を重ねた過労から気疾を患い、大統十二年(546年)在任のまま卒した。享年四十九。
- 周文帝は深く哀惜し、葬儀にあたり公卿に「蘇尚書は生前謙退・儉約を旨としていた、その素志を全うしたいが、厚く贈諡すれば生前の相知の道に反しよう」と迷いを語ると、尚書令史麻瑤が進み出て「斉の晏子は狐裘を三十年着続け死に際しては車一乗のみで送られたが斉侯はその志を奪わなかった、綽の清廉を彰すには倹約が相応しい」と述べ、周文帝はこれを善しとし瑤を朝廷に推薦した。綽の遺骸を武功に帰葬する際は布車一乗のみを用い、周文帝以下群公が徒歩で同州の郭外まで見送った。周文帝は車の後ろで酒を注ぎ「尚書の生前の事は妻子兄弟も知らぬことまで私は知っていた、ただ君だけが私の心を知り、私も君の意を知っていた、共に天下を定めようとしていた矢先に先立たれ、どうすればよいのか」と声を上げて慟哭し盃を落とした。葬儀当日には太牢を供え自ら祭文を作った。
- 綽はまた「佛性論」「七経論」を著し世に行われた。周明帝二年、文帝廟廷に配享された。子の威が跡を継いだ。
蘇綽の子・蘇威
- 字は無畏。五歳で父を失い哀毀は成人のようであった。周文帝の時、美陽県公を襲爵し郡功曹に出仕。大塚宰宇文護は威を見込み娘の新興公主を娶らせたが、威は護の専権に禍が及ぶことを恐れ山中に逃れ、叔父に強いられてようやく出仕した。山寺に籠っては読経を楽しんだという。持節・車騎大将軍・儀同三司、懐道県公に改封されたが前後の授官はいずれも病と称して辞退した。武帝親政後、稍伯下大夫を拝された。
- 従妹が河南の元世雄に嫁いでいたが、世雄が以前突厥と仇怨があり、突厥の入朝時に世雄夫妻を求められ危機に瀕した際、威は夷人が利を重んじることを見抜き、自ら田宅を売り払って資産を贖い出した。世人はこれを義とした。宣帝即位で開府を拝された。
- 隋文帝が丞相のとき、高熲がしばしば威の賢を推薦し、召し入れて語り合い大いに悦んだ。しかし威は禅代の議を聞くと田里に逃げ帰り、高熲が追跡を願い出たが文帝は「彼は私の事業に関わりたくないだけだろう、放っておけ」と止めた。受禅後、太子少保を拝され父に邳国公が追贈され威がこれを襲爵、納言を兼ねたが辞退を上表し優詔で許されなかった。
- 帝が皇后とともに酒宴を催した際、高熲・楊素・広平王雄とともに威を召し「太史の予言では朕の運命は三年で尽きるという、憂いから酒を挙げたのだ、南山の険阻な地を固めて時変に備えたいがどうか」と問うと、威は「周文帝は徳を修めて地震の災を退け、宋の景公は一言で法星を三舎退けた、徳を崇めるべきで、険阻に頼るなら同舟の者すら敵になりかねない」と諫め、帝はこれを善しとした。
- 父の綽が魏で国用不足のため税法を定めた際「張弓のようなもので平時の法ではない、後世の君子は誰がこれを弛められようか」と嘆いていたことを聞いていた威は、これを自らの任と考え、賦役の軽減を奏請し帝は悉く従った。宮中の銀の幔鉤を節倹の美として諫めると帝は改め古い調度を改修させた。帝が激怒し人を殺そうとした際、威が閣に入って諫めても聞かれず、帝自ら斬りに出ようとしたところ威が前に立ち塞がり道を遮り続け、ついに帝は「公がこうであれば私に憂いはない」と謝し馬二匹・銭十余万を賜った。
- 大理卿・京兆尹・御史大夫を兼ね、持書侍御史梁毗が五職兼任と賢者推薦の怠慢を弾劾したが、帝は「蘇威は日夜孜孜として遠大な志を持つ、賢を挙げる暇がないだけだ」と庇い、威に「用いられれば行い、捨てられれば匿う、それができるのは我と君だけだ」と語り、朝臣には「蘇威は私がいなければその言を用いられず、私も蘇威がいなければその道を行えない、楊素の才弁は並ぶ者がないが古今を斟酌し宣化を助ける点では威に及ばぬ」と称賛した。
- 刑部尚書に転じ、京兆尹廃止後は雍州別駕を検校。高熲と心を同じくして政刑を協賛し数年で天下は治平と称された。戸部尚書、山東の飢饉救済、吏部尚書兼国子祭酒を歴任。隋の律令格式の多くは威が定めたとされる。開皇九年(589年)尚書右僕射。母の喪で骨立するほど哀毀したが優詔により復職。文帝の并州行幸に伴い高熲とともに留守を総べ、のち行在所で人々の訴訟を裁いた。
- 江南巡撫の節を持ち会稽・五嶺を巡った。江南は晋以来刑法が疎緩で貴賎を問わなかったが、平陳後の統治で改変を進め五教の誦読を強い、威も煩雑な政令で百姓の怨嗟を招いた。江南の戸籍を内州同様に整えることを奏上したが、州県の徙民策への反発から饒州の呉世華の乱や旧陳の各地反乱を招き、内史令楊素が討伐に赴いた。突厥都藍可汗への使者も務めた。
- 子の夔は名声を頼りに賓客を集め、国子博士何妥と楽制を巡り対立、百僚の署名は威の子夔に多く付いた。妬んだ何妥は威・盧愷・薛道衡・王弘・李同和らを朋党として弾劾し、威が従弟の蘇徹・蘇肅を私情で任官させたことや国子学人事の私曲も指摘された。蜀王秀・虞慶則らの調査で事実が確認され、帝は宋書謝晦伝の朋党の故事を威に読ませ、威は免冠して謝罪。多くの名士が連座で処罰されたが、まもなく帝は「蘇威は徳行の人だが人に誤られただけ」と通籍を命じた。
- 邳公の爵位と納言に復し、泰山での祭祀に不敬で免官となるがまた復位。帝は群臣に「世人は蘇威が清廉を装い金玉を蓄えていると言うが妄言だ、ただ性格が狠戻で世務に切実でなく名を求めすぎる、従えば喜び逆らえば怒る、これが彼の大きな欠点だ」と評した。仁寿初年(601年)尚書右僕射に復し、仁寿宮行幸の留守を任された。御史から職務怠慢を弾劾され帝に責められたが謝罪で収まった。
- 煬帝即位後、長城修築を諫めたが用いられず。高熲・賀若弼の誅殺に連座し免官、のち魯郡太守、太常卿、吐谷渾征討で右光禄大夫。再び納言となり宇文述・裴矩・裴蘊・虞世基とともに「五貴」と称された。遼東征討で右武衛大将軍、光禄大夫、房陵侯のち房公。老齢を理由に致仕を願うも許されず選事に参与、再度の遼東征討で右禦衛大将軍。
- 楊玄感の反乱時、帝が「この若造が乱を為すとは」と懼れると威は「粗略なだけで聡明ではないので大事には至らぬだろうが、乱の端緒になることは恐れる」と答えた。労役の続きに民が乱を思う様を見て諷諫を試みたが帝は悟らなかった。
- 涿郡への還幸後、関中撫慰の使に立ち、孫の尚輦直長儇が副使、子の鴻臚少卿夔も関中簡黜大使として同時期に赴任し「一家三人が関右を治める」と三輔で栄誉とされた。帝は「玉は丹紫にも質を損なわれず、松は霜にも凋まぬ、房公威は先朝からの重臣、社稷の棟梁として朕を輔けてきた」との詔を発し開府儀同三司を加えた。
- 雁門で突厥に包囲された際、帝が軽騎で突囲しようとするのを「城を守れば我に余力があるが軽騎は敵の得意とするところ、万乗の主が軽々しく動くべきではない」と諫め、突厥はまもなく囲みを解いた。太原滞在時、盗賊が絶えないことから帝に京師へ戻り根を固めるよう勧めたが、結局宇文述らの議に従い東都へ向かった。天下大乱の中、帝を正すことができぬまま盗賊の情勢を問われた際、宇文述が「盗賊は少なく憂うるに足らず」と答えるところを、威は柱の陰に隠れ「職掌でないため詳しくは知らないが、賊が次第に近づいていることを憂える」とだけ答え、帝が問いただすと「先には長白山にいた賊が今は滎陽・汜水にまで迫っている」と告げ帝は不興を示した。五月五日の献上物として珍玩の代わりに尚書一部を献じ諷諫を試みたが帝はますます不快に思った。遼東再征を諮られた際も群盗の赦免と征討中止を進言し帝を怒らせた。御史大夫裴蘊の意を受けた御史張行本が威の高陽での濫授や突厥への怯懦を弾劾すると、帝は「威は朋党を立て詭道を懐き名利を求め律令を謗り台省を誹謗した」と詔して除名した。のち突厥との内通を疑われ大理の取調べを受けたが、精誠が上に通じなかっただけと陳弁し憐れまれて赦された。その後江都行幸に従ったが、裴蘊・虞世基の反対で再登用は見送られた。
- 宇文化及の弑逆後は光禄大夫・開府儀同三司とされ、化及敗死後は李密に、李密敗死後は東都に戻り越王侗から上柱国・邳公、王世充の僭号時は太師とされた。隋の旧臣として喪乱に遭うたび時勢に応じて身を処し容免を求めた。
- 唐の太宗が世充を平定した際、威は病老を理由に拝跪できぬと述べたが、太宗は人を遣わし「公は隋の宰輔でありながら乱政を匡救できず、君主が弑され国が亡ぶに至った、李密・世充にはみな拝伏舞蹈しておきながら今さら老病で会えぬとは」と詰った。長安に入り朝堂で拝謁を願うも高祖にも許されず、家で没した。享年八十二。
- 威は清倹廉慎で称されたが、公議では異見を許さず小事にも固執し、大臣の体を欠くと評された。制定した格令章程は当世に行われたが煩瑣に流れ久しく通用する法とは言い難いとされた。大業末年、賦役が過重になる中、論功行賞では帝の意を汲んで事を止め、群盗の奏聞があれば使者を叱って賊数を減らさせたため討伐が捷を奏さず、乱を招いたとして世の批判を受けた。子は夔。
蘇威の子・蘇夔
- 字は伯尼。聡敏で弁が立ったが軽険な性格であった。八歳で詩を誦じ騎射も解し、十三歳で父に従い尚書省に至り安徳王雄と弓を競い駿馬を得た。十四歳で学に入り儒者と議論しその見識を称賛された。長じて博覧強記、鍾律を自任とした。初名は哲、字は知人だったが父の威が改名させ、有識者に笑われた。太子通事舍人から出仕。楊素はこれを見込み威に「楊素には子がなく、蘇夔には父がいない(=夔ほど優れていない)」と戯れた。のち鄭譯・何妥との楽制論争で罪に問われ議は行われなかったが「楽志十五篇」を著してその志を示した。数年後太子舍人に遷るが罪により免官、仁寿三年(603年)礼楽の源流に通じた者を天下に求める詔が出ると、雍州牧の晉王昭が夔を推挙、他州の推薦者五十余人と共に謁見した際、帝は「これぞ我が推挙にふさわしい者」と評し晉王の友とした。
- 煬帝即位後、太子洗馬・司朝謁者を歴任したが父の免職に連座して去官、のち尚書職方郎・燕王司馬。遼東征討の功で朝散大夫。帝が四夷来朝の接待役に「才芸と容儀に優れ賓客に接せられる者」を求めると威が夔を推し鴻臚少卿を拝された。高昌王麴伯雅の来朝の際は公主降嫁の婚儀を主宰した。
- のち延安・弘化などで盗賊が屯結すると関中の巡撫を命じられ、突厥の雁門包囲時には鎮城の東南に弩楼・車箱・獣圈を一夜で築き帝に称賛され通議大夫に進んだが、父の事件に連座し除名。母の喪に堪えかね卒した。享年四十九。
蘇綽の弟・蘇椿
- 字は令欽。廉慎で沈勇果断な性格。魏の正光年間、関右の賊乱に応募し討伐に加わり蕩寇将軍。功により中散大夫、美陽子。大統初年、鎮東将軍・金紫光禄大夫、賀蘭氏を賜姓。のち帥都督として弘農郡事を代行し、周文帝に特に重んじられた。
- 大統十四年(548年)当州郷師が置かれた際、郷望に適う者だけが選ばれる中、周文帝は駅を通じて椿を追い召し郷兵を統率させた。同年槃頭氏を破る功で散騎常侍・大都督。大統十六年(550年)随郡征討。軍が戻ると武功郡守(本邑)となり、清儉を旨として大小の政に忠恕を尽くした。侯に進み驃騎大将軍・開府儀同三司・大都督で卒した。子の植が跡を継いだ。
蘇綽の従兄・蘇亮
- 字は景順、綽の従兄。祖の稚は中書侍郎・玉門郡守、父の祐は泰山郡守。亮は聡明で博学、文章に長じ弟の湛らとともに西土で名を馳せ、一家から二人の秀才が出た。洛陽に至った際、河内の常景に「秦中の才学で山東に抗し得るのはこの人だろう」と激賞された。魏の齊王蕭寶夤の参軍となり、寶夤が大将軍に進むと掾となり厚遇され、文檄謀議はすべて委ねられた。武功郡事を代行し治績を上げ、寶夤の反逆時には黄門侍郎とされた。人との付き合いが穏やかで反逆連座を免れた(従った者の多くが禍に遭う中、亮のみ助かった)。長孫承業・爾朱天光らの西討にも郎中として文翰を掌り、賀拔岳の関西行台では左丞として機密に参与した。
- 魏孝武帝の西遷後、吏部郎中。大統二年(536年)給事黄門侍郎兼中書舎人。魏文帝の子で秦州刺史の宜都王式の司馬に任じられた際、帝は「黄門侍郎がなぜ秦州司馬に」と問われた亮に「愛する子を外に出すゆえ心腹の者を委ねたのだ、恨まぬように」と語り御馬を賜った。大統八年(543年)臨涇県子、中書監・著作を領し国史を修めた。機知と談笑に長け、周文帝の議に多く合致し、人の善を記し過ちを忘れ後進の推挙を怠らなかったため世に敬慕された。秘書監・大行台尚書を歴任し岐州刺史に出た際、朝廷は本州牧任として路車・鼓吹を特に授け、三千の騎士とともに郷党を巡らせ故人と歓飲する栄誉を与えた。大統十七年(551年)侍中に召されるが在任のまま卒し、本官が追贈された。
- 亮と従弟の綽はともに若くして名を知られたが、文章では綽が亮に及ばず、経画・進趣では亮が綽に及ばず、世に「二蘇」と称された。大統以来毎年のように官が転じ一年に三度遷ることもあり、皆その速さを才によるものと見て怪しまなかった。著した文筆数十篇は世に広く行われた。子の師が亮の名声により起家し黄門侍郎となった。
蘇亮の弟・蘇湛
- 字は景俊。若くして志行があり亮とともに西土で名を馳せた。二十余歳で秀才に挙げられ奉朝請・侍御史・員外散騎侍郎。蕭寶夤の西討で行台郎中として深く信任された。寶夤が反逆を謀った際、湛は病臥中であったが、寶夤は従母弟の姜儉を通じ「坐して死を待つより身の計を立てる、共に生死栄辱を分かちたい」と告げさせると、湛は声をあげて慟哭し「一門百口がたちまち屠られるのに泣かずにいられようか」と述べ、儉を通じて寶夤に「王はもと窮して人に帰した身、朝廷が羽翼を貸したからこその今の栄寵、国家多難の折に誠を尽くさず人の隙に乗じて簒奪を企てるとは何事か、魏の徳はまだ衰えず天命も改まっていない、王の恩義もまだ人心に広がっていない今、破滅は必至だ、私はこの一族代々の忠貞の基を王のために滅ぼしはしない」と諫めた。寶夤は「これは救命の計、已むを得ぬのだ」と重ねて説いたが、湛は「大事を挙げるなら天下の奇士を得るべき、長安の博徒の小児輩とこの計を為して成功するはずがない、王の家門に荊棘が生えるのを見たくない、故郷に骸骨を返してもらいたい、そうすれば地下で先人に恥じずに済む」と述べた。寶夤は湛が己のために動かぬことを悟り武功への帰郷を許した。寶夤は後に案の定敗れた。
- 孝莊帝即位後、尚書郎に召された。帝が「卿が蕭寶夤に答えた言葉は名文と聞く、話してくれ」と求めると、湛は「私の言辞は伍被(漢の淮南王の謀反を諫めた人物)には遠く及ばないが、始終を変えなかった点ではそれを上回ると思う、ただ寶夤との旧交に免じて心を尽くしたが節を守らせることができなかった、これは私の罪だ」と頓首して答えた。孝莊帝は大いに喜び散騎侍郎を加えた。まもなく中書に遷る。孝武帝の初め病により帰郷し家で没した。散騎常侍・鎮西将軍・雍州刺史が追贈された。
蘇湛の弟・蘇讓
- 字は景恕。幼くして聡敏で学を好み人物鑑識にも優れた。本州主簿から別駕・武都郡守・鎮遠将軍・金紫光禄大夫に進んだ。周文帝が丞相となると府属に引かれ厚遇された。衛将軍・南汾州刺史として善政を敷き、任地で卒した。車騎大将軍・儀同三司・涇州刺史が追贈された。
史論
論曰、周惠達は蕭寶夤に見出された縁で戎寇の間を転々としたが、危険な状況でも志を変えなかった、まことに終わりを全うした士である。周文帝は剣を提げて興り、あらゆる制度を草創し、争乱の時代に約法を施し、鼎立の日に太平の礼を修め、ついに華美を削って質朴に返し儉約を旨とすることができた。教化が広まり、上下が粛然と尊び合い、辺境に事があっても内は安んじ外は帰服した――これはひとえに蘇綽の力によるものである。邳公蘇威は周の末世に幽貞の節を守り、隋室の興隆に真っ先に応じて任用され、以後任遇を重ねて栄寵を極め、久しく機衡(要職)にあって多くの損益を成し、心力を尽くして為すべきことを為さぬことがなかった。しかし志は清儉に偏り度量は広くなく、己と異なる意見を嫌ったのは正道に反し、易簡(率直簡明)の徳を備えていたとは言い難い。二代の帝に三十余年仕え、廃黜された時期があっても遺老と称されたが、君主が邪であっても正しく諫めることができず、国が亡んでも心情は凡庶と変わらなかった――「予に違えば汝弼(正せ)」との言葉ばかりで、疾風勁草(逆境でこそ節操の強さが分かる)の実を示す人物ではなかった。禮遇が興王(隋の建国)の初めに欠けていたのも、この点によるのであろう。子の夔は識見沈着で風雅と評すべき人物であり、もし天がさらに歳月を与えていれば、父祖の事業を欠けることなく継いだであろう。