閻慶
- 字は仁度、河陰の人。曾祖の善は魏で龍驤将軍・雲州鎮将となり雲州盛楽郡に居を構えた。祖の提は持節・車騎大将軍・敦煌鎮都大将。父の進は正光年間衛可瑰の乱で盛楽を守り功により盛楽郡守。慶は聡敏で信義に厚く風儀端正、父の防戦を助け別将、のち軍功で歩兵校尉・中堅将軍。
- 斉神武が洛陽で専権すると「高歓が篡逆を企てるなら苟安できぬ」と語り、大統三年(537年)宜陽から帰順。後将軍に転じ安次県子、功により伯に進む。士卒の撫恤に努め信頼を得た。散騎常侍・驃騎大将軍・開府儀同三司・雲州大中正、侍中を加えられ大野氏を賜姓。周孝閔帝踐阼で河州刺史・石保県公。辺境の撫恤に努め簡明な善政を敷き、大将軍・太安郡公に進む。小司空、雲・甯二州刺史を歴任し、寛容な性格で百姓に慕われた。天和六年(571年)柱国。
- 晋公護の母は慶の姑にあたるが、慶は護に阿附せず、護誅殺後は武帝に重んじられた。子の毗は武帝の娘清都公主を娶った。位望が高くとも廉慎自守を貫き称賛された。建徳二年(573年)致仕を上表し許された。宣帝は先朝の耆旧として静帝を遣わし見舞わせ、布千段と医薬を賜った。大象二年(580年)上柱国。
- 隋文帝践祚後も皇太子の見舞いと医薬の供給を受けた。開皇二年(582年)薨、享年七十七。司空・七州諸軍事・荊州刺史が追贈され諡は成。長子の常は先に卒し、次子の毗が跡を継いだ。
閻慶の子・閻毗
- 七歳で石保県公を襲爵。儀貌端厳で経史を好み蕭該に漢書を学び大旨を通じ、篆書・草隷にとりわけ優れ当時第一と称された。周武帝がこれを愛し清都公主を娶らせた。宣帝即位で儀同三司。
- 隋文帝の受禅後、技芸で東宮に仕え精巧な品で太子に取り入り寵愛された。宿衛の車騎に任じられ、高熲の閲兵で軍規の乱れが多い中、毗の一軍のみ整然としていたため上儀同を賜った。太子服玩の品の多くは毗の製作。太子廃位に連座して杖百・官奴婢に落とされたが二年で放免された。
- 煬帝即位後、軍器製作の巧みさと故実の知識により典職を詔され朝請郎。輦輅車輿の増損を建言し起部郎。帝が属車の多さを嫌い意見を求めた際、毗は秦制の八十一乗、漢の法駕三十六乗、宋の小駕十二乗の故実を挙げて答え、帝は「秦制は用いず、大駕三十六・法駕十二、小駕は廃止せよ」と決した。
- 長城修築の総括、恒山祭祀の壇場営造、殿内丞、高昌王来朝の接待、母の喪、洛口から涿郡への漕運工事の督責、右翊衛長史として臨朔宮を造営、遼東征討で武賁郎将として宿衛にあたり、遼東城下での宣諭では矢が乗馬に当たっても顔色を変えなかった。殿内少監・将作少監を歴任。再度の遼東征討中、楊玄感の反乱で帝が撤兵する途中、高陽郡で卒した。帝はこれを深く悼み殿内監を追贈した。