北史卷六十一 列傳第四十九 賀蘭祥

賀蘭祥

  • 字は盛楽。先祖は魏とともに興り、乞伏氏が賀蘭莫何弗の官に任じられたことから氏とした。父の初真は文帝の姉建安長公主を娶り、保定二年(562年)太傅・柱国・常山郡公が追贈された。祥は十一歳で父を失い、舅の周文帝に愛され儒学の教育を受けた。晋公護とともに晋陽にあり、のち迎えられ入関した。奉朝請から都督に抜擢され、侯莫陳悅平定・孝武帝迎奉の功で撫夷県伯、潼関攻防での東魏将薛長儒生け捕り、回洛攻略の功で左右直長に進む。
  • 大統九年(543年)芒山の戦功で驃騎大将軍・開府儀同三司・侍中。大統十四年(548年)荊州刺史・博陵郡公。以前も荊州事を代行し善政を敷いていたため、漢南の流民が日々千を数え帰属し、蛮夷も款附した。夏の日照りの中境内を巡り古墳の発掘(骸骨露出)を戒めると即日雨が降り豊作となり、以後発掘の風習は止んだ。梁との贈答を一切受けなかったが、梁の岳陽王蕭詧が贈った屏風などは周文帝の命で受領した。富平堰の修築で灌漑を通し民に利をもたらした。魏廃帝二年(553年)華州事を代行、のち同州刺史・尚書左僕射。六官制で小司馬。周孝閔帝踐阼で柱国・大司馬。晋公護の中表として軍国の議に参与し、趙貴誅殺・閔帝廃立にも関与した。
  • 武成初年(559年)吐谷渾侵掠を宇文貴とともに討伐し洮陽・洪和二城を得て洮州を置き、涼国公に進む。薨後太師・同岐等十三州諸軍事・同州刺史が追贈され諡は景。
  • 七子のうち敬・讓・璨・師・寛が知名。敬は化隆県侯を経て涼国公を襲爵、柱国・華州刺史。讓は大将軍・鄭州刺史・河東郡公。璨は開府儀同三司・宣陽郡公、建徳五年(576年)并州の戦で没し上儀同大将軍・清都公を追封。師は明帝の娘を娶り上儀同大将軍・幽州刺史・博陵郡公。寛は開府儀同大将軍・武始公、隋で汴・鄭二州刺史として政績を残した。
  • 弟の隆は大将軍・襄楽県公、隋文帝が旧交により上柱国を追贈した。