北史卷六十一 列傳第四十九 竇熾

扶風平陵の人、字は光成。後漢の竇章の後裔。西魏・北周の軍人で騎射に優れ、原州刺史として十年にわたり善政を敷き、柱国大将軍・鄧国公に至った。隋初も文帝に重んじられ太傅として厚遇された(開皇四年薨、享年七十八)。次女が唐高祖の皇后(太穆皇后)となった甥の竇毅も知られる。

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出自と経歴

  • 字は光成、扶風平陵の人、後漢の大鴻臚竇章の後裔。章の子統は霊帝の時代雁門太守として竇武の難を避け匈奴に亡命し部落大人となった。北魏の南遷後、子孫は代に住み紇豆陵氏を賜姓。代々魏に仕え大官に至った。父の略は平遠将軍、熾の勲功で少保・柱国大将軍・建昌公が追贈された。
  • 熾は厳明で謀略にすぐれ、髯が美しく身長は八尺二寸。若くして范陽の祁忻に毛詩・左氏春秋を学び大義を通じ、騎射に優れ膂力人に過ぎた。魏の正光末、北鎮の動乱で父の略とともに定州に避難し葛栄に投じたが、略は官職を拒み葛栄に疑われて冀州に留め置かれ、熾と兄の善のみ従軍させられた。爾朱栄が葛栄を破ると熾は一家とともに并州に移った。葛栄の残党韓婁の薊城籠城に対し都督として驃騎将軍侯深に従い討伐、自ら婁を斬り揚烈将軍に拝された。
  • 魏孝武帝即位の宴で鴟が殿前に飛来した際、熾の射術を知る帝が矢を与えて射させ、応弦して落とし諸蕃人を驚嘆させた。樊子鵠に従い爾朱仲遠を追撃(仲遠は梁へ奔る)、梁から侵入した元樹の討伐にも功があり行唐県子、のち上洛県伯。帝と斉神武の対立が深まると閣内大都督・硃衣直閣として孝武帝の西遷に従い、城下の攻防で兄の善とともに武衛将軍高金龍を破り、御馬四十匹と鞍勒を献上して帝を喜ばせ駿馬と駑馬を賜った。
  • 大統元年(535年)真定県公。竇泰生け捕り・弘農奪還・沙苑の戦功。河橋の戦いでは孤軍となり山を背に奮戦、矢が尽きた騎士の弓が破られても矢を集めて射返し敵馬を倒し続け、敵に「これ以上得ても功にならぬ」と言わせて囲みを解かせ、その隙に突囲した。太保李弼に従い白額の稽胡を討伐した。
  • 高仲密の北豫州来附の援護、東魏軍を大破した芒山近郊の戦功で開府儀同三司・侍中に進み、涇州刺史として清静な善政を敷いた。安武県公。

原州刺史から柱国大将軍へ

  • 魏廃帝元年(552年)原州刺史。豪右を抑え冤訟を正し十年にわたり治績を残した。州城北の泉で「この州にいる限り水を飲むだけでよい」と言った逸話が伝わり、離任後も人々に慕われた。恭帝元年(554年)広武郡公に進む。蠕蠕の広武侵攻には柱国趙貴と分進して麹伏川で大破した。武成二年(560年)柱国大将軍。周明帝が熾のために邸宅を建てようとしたが、天下未平を理由に辞退した。
  • 保定元年(561年)鄧国公(邑一万戸、別に資陽県一千戸)。天和五年(570年)大宗伯から宜州刺史に転じたが、これは以前渭北での兎狩り競争で熾が晋公護に勝ったことを護が恥じ、さらに熾が周武帝への政権返還を勧めたことを護が疎んだためであった。護が誅殺されると太傅に召された。
  • 朝の元老として軍国の大謀に常に参議し、病時には周武帝の見舞いを受け金石の楽を賜った。斉討伐を武帝が計画した際、熾は老骨に鞭打ち先陣を切りたいと志を述べ、感激した武帝は次子の武当公恭を左二軍総管に任じた。斉平定後、帝が相州の宮殿を巡覧させると熾は「陛下は先帝に恥じません」と称賛し、上柱国に進んだ。
  • 宣政元年(578年)雍州牧を兼任。周宣帝の東京造営では京洛営作大監として宮苑の制度を取り仕切った。大象初年(579年)樂陵県の食邑に改める。隋文帝が入輔政すると洛陽宮の造作を止めて熾は入朝しようとしたが、尉遲迥の挙兵で金墉城に籠り洛州刺史元亨とともに固守した。相州平定後入朝。文帝が相国となり百僚が勧進した際、代々の恩を理由に署名を拒み節操を称賛された。文帝践祚後太傅、贊拝不名の殊礼を受ける。開皇四年(584年)八月薨、享年七十八。八州諸軍事・冀州刺史が追贈され諡は恭。
  • 熾は親に孝を尽くし兄弟に篤く、子孫も高位につき当時の盛族となった。子の茂が跡を継ぎ、弟十三人中恭・威が知名。恭は大将軍に至り斉平定の功で贊国公・西兗州総管となったが、罪により賜死した。

竇熾の兄・竇善とその子・竇栄定

  • 竇善は中軍大都督・南城公として魏孝武帝の西遷に従い、太僕・衛尉卿・汾北華瀛三州刺史・驃騎大将軍・開府儀同三司・永富県公を歴任、諡は忠。子の栄定が跡を継いだ。
  • 栄定は深沈な器量と魁偉な容貌を持ち騎射に巧み。魏文帝の千牛備身から周文帝に見出され平東将軍・宜君県子。北芒の戦いで周師が不利になった際、汝南公宇文神慶とともに精騎を率いて斉軍を撃退し上儀同、さらに軍功で開府に進む。永富県公を襲爵し忠州刺史。斉平定に従い上開府、前将軍・佽飛中大夫。
  • 妻は隋文帝の姉安成長公主で、文帝と親交厚かった。文帝が相国となると天台の鎮守と露門内両廂の仗衛を統括し、常に禁中に宿した。尉遲迥平定後、山東への備えとして洛州総管。前後の賜物は縑四千匹・西涼女楽一部。受禅後は馬三百匹・部曲八十戸を賜り帰す。事に坐して除名されたが、公主が「天子の姉が田舎者の妻にされるのか」と述べ、まもなく右武候大将軍に復した。帝はたびたび第を訪れ厚遇し、上柱国に拝された。
  • 甯州刺史・右武候大将軍・秦州総管を歴任し呉楽一部を賜る。突厥沙鉢略の侵攻には行軍元帥として高越原で対峙、水のない地で兵が渇きに苦しみ馬血を刺して飲むまでに至ったが(死者十二三割)、栄定が天に嘆願すると雨が降り軍が持ち直し、これを機に突厥を撃退して盟を結ばせた。安豊郡公に進み子の憲も安康郡公に封じられた。右武衛大将軍。文帝が三公に任じようとしたが固辞した。卒すると帝は廃朝し左衛大将軍元旻に喪事を監護させ絹三千匹を賻した。冀州刺史・陳国公を追贈され諡は懿。子の抗が跡を継ぐ。

竇栄定の子・抗、慶、璡

  • 抗は容儀端正で機知に富み、父の卒後厚遇を受け定州刺史・幽州総管を検校したが、煬帝即位後の漢王諒の乱に通謀を疑われ除名、弟の慶が陳公を襲封した。
  • 慶も容姿優れ性格温厚、草隷に巧みであった。永富郡公から河東太守・衛尉卿を歴任し、大業末に南郡太守として盗賊に殺害された。
  • 弟の璡も草隷に巧み鍾律に通じ、頴川・南郡・扶風の太守を歴任した。

竇熾の兄の子・竇毅

  • 字は天武。父の岳は早世し、毅の勲功で大将軍・冀州刺史が追贈された。事親に孝を尽くし、魏孝武帝の初め員外散騎侍郎、斉神武の専権に義憤を抱いて孝武帝の西遷に従い奉高県子に封じられた。竇泰生け捕り・弘農奪還・沙苑の戦功で安武県公に進む。恭帝元年(554年)驃騎大将軍・開府儀同三司・大都督、永安県公に改封。幽州刺史。周孝閔帝踐阼で神武郡公。保定三年(563年)大将軍。
  • 突厥との婚姻交渉が難航する中、地位と勲戚を兼ねた毅が使者に立ち、大義を説いて動揺していた突厥君臣を数十日かけて説得し皇后を無事帰国させた。成都県公に進み柱国、同州刺史・蒲金二州総管を歴任し上柱国、大司馬。隋開皇初年定州総管。開皇二年(582年)任地で薨、襄・郢等六州刺史を追贈され諡は粛。
  • 性温和で謹慎自守、周文帝の第五女襄陽公主を娶り朝廷の信任篤かった。子の賢が跡を継ぐ。賢、字は托賢。宣政元年(578年)儀同大将軍。開皇年間神武公を襲爵、遷州刺史。
  • 毅の第二女は大唐太穆皇后(唐高祖の后)。武徳元年(618年)毅に司空・荊郢等十州諸軍事・荊州刺史・杞国公が追贈され、賢の子紹宣にも秦州刺史が追贈され賢の爵を襲ったが、紹宣に子がなく兄の子徳蔵が嗣いだ。