生涯
- 字は元寶、天水南安の人。祖父の仁は良家の子として武川を鎮め、そのまま定住した。貴は幼くして節概があり、爾硃榮に別將とされ元顥討伐に功を立て燕樂縣子を賜った。賀拔岳に従い関中を平定し累進して大都督となった。
- 岳が侯莫陳悅に殺されると将吏は敗走し守る者がなかった。貴は党の者に「仁義に常なるものがあろうか、行えば君子、違えば小人となる。朱伯厚・王修は些細な恩義に感じてなお名節を全うした、まして我々は賀拔公の国士の待遇を受けたのだ、どうして凡人と同じでいられようか」と涙ながらに語り、従う者五十人を得た。悅の陣に偽って降り、悅はこれを信じた。岳の遺体を収葬させてほしいと請い、その言葉は慷慨たるもので、悅は壮としてこれを許した。貴は岳の遺体を営に収め、寇洛らとともに平涼に奔り悅への対抗を図った。貴は真っ先に周文帝を迎える議を発した。周文が到着すると貴は大都督・領府司馬となった。悅平定の後、秦州事を行った。
- 後に魏文帝擁立の勲により公に進爵。梁GC定が河右で乱を起こすと、貴は隴西行臺としてこれを討破した。弘農を復し沙苑で戦った功により中山郡公に進爵。河橋の戦いでは貴と怡峰が左軍となり戦いに不利で先に退いた。高仲密が北豫州で降った際、周文はこれを迎え東魏軍と芒山で戦ったが、貴は左軍として軍律を失い罷免された。まもなく官爵を復した。後に柱國大將軍を拝し乙弗氏の姓を賜った。六官の制が建てられると太保・大宗伯となり南陽郡公に改封。周孝閔帝の即位後、大冢宰に遷り楚國公・邑一万戸に進封された。
- もとより貴は獨孤信らとともに文帝と同輩であった。晋公護が摂政となると、貴は自らを元勳と自負して常に怏々とし、信とともに護の殺害を謀ったが、開府宇文盛に密告され誅された。
從祖兄善
- 善は字を僧慶といい、貴の従祖兄にあたる。若くして学問を好み、容儀が美しく沈毅で見識に富んだ。爾硃天光が邢杲・万俟醜奴を討伐した際、長史とした。普泰初年、大行台尚書となり山北縣伯に封じられた。天光が齊神武と韓陵で戦い敗れて殺された際、善はその遺体の収葬を請い、齊神武は義としてこれを許した。賀拔嶽が関中を統べると善を迎えて再び長史とした。岳が侯莫陳悅に殺されると、善は諸将とともに周文帝を推戴した。魏孝武帝の西遷に際し襄城縣伯に改封。尚書左右僕射を歴任し公に進爵した。善は温恭で器量があり、要職にあってもいよいよ謙退した。職務の成功は「某官の力」とし、罪責は「善の咎」とした。時人は彼に公輔の器量があると称した。
- 大統九年、芒山の戦いに従ったが大軍が不利となり、善は敵に捕らえられ東魏で卒した。建德初年、周・齊が通好すると齊人はその柩を送り返した。子の詢が贈諡を上表し、大將軍・大都督・四州諸軍事・岐州刺史を贈られ、諡を敬とされた。