北史卷五十五 列傳第四十三 王紘

王紘

  • 字は師羅。太安狄那の人。父の王基は読書家で智略に富み、葛榮に従い宇文泰と知遇を得たが、関中に留められた後に逃げ帰った。南益・北豫二州刺史を歴任し、聚斂を好んだが和直な性格で吏人にさほど怨まれなかった。のち奴僕に殺され吏部尚書を追贈された。
  • 王紘は騎射に長け文学を愛し敏捷だった。十三歳で揚州刺史郭元貞に《孝経》の内容を問われ「上に在りて驕らず、下と為りて乱れず」と答え、「私は驕っているか」と問われると「君子は未然を防ぐもの、留意を願う」と応じ称賛された。十五歳で北豫州の行台侯景の衣の左右を巡る議論に「国家は朔野より興り中原を制す、五帝も三王も制度は異なる、掩衣の左右など問題にならぬ」と発言し早熟の才を評価され名馬を賜った。興和中、文襄に庫直・奉朝請として召され、文襄が横死した際は刃を冒して防戦し、忠節により平春縣男に進んだ。
  • 文宣に重用され領左右都督となった。文宣が「快楽なり」と述べた際「大苦もある」と諫め、酒色に溺れ国が滅ぶことの苦を説いた。文宣が「なぜ紇奚舎樂と共に殉じなかったのか」と責めた際も「主君に死すのは常だが賊の力が弱く死に至らなかった」と堂々と答え、処刑されかけたが「楊遵彥・崔季舒は難を逃れて出世し、命を賭した者が誅されるのは前代未聞」と訴えて許された。
  • 驃騎大將軍に拝され、武平初年開府儀同三司を加えられた。突厥と北周の連携への警戒を上言。陳が淮南に侵攻した際、出兵を主張する封輔相に対し、薄賦省徭・仁義による統治を説いて江南平定は容易でないと諫めた。侍中を兼ね北周への使者に立ち、還って正式に就任、まもなく没した。著述を好み《鑒誡》二十四篇を著した。