太安狄那の人
- 若くして志操があり深沈な性格で喜怒を色に出さなかった。神武が晋州を鎮めた際、鎮城都督に引き立てられた。信都での挙兵にも軌は大策を賛成した。爾朱兆を広阿で破り、また韓陵の陣にも従い平昌県侯に封ぜられた。中軍を督し、爾朱兆を赤谼嶺で破る戦にも従った。秦州刺史に再遷し辺境の和平をよく保った。神武が秦州を巡視した際、軌を交代させようとし城の人々に絹布二疋ずつを賜ろうとしたが、州人の田昭ら七千戸はみなこれを辞退し軌の留任だけを願った。神武はこれを嘉して軌を留めた。軍功を重ね安徳郡公に進み瀛州刺史に遷った。任地で収奪を行い御史に弾劾され官爵を削られたが、まもなく安徳郡公を復された。中書令・司徒を歴任。斉の受禅で安徳郡王に封ぜられた。
- 軌の妹は神武に納れられ上党王渙を生んだ。軌はさらに功勲により台鉉に登ったが常に謙恭を旨とし富貴に驕らなかった。のち大司馬を拝し文宣の蠕蠕征伐に従ったが軍中で急病にかかり薨じた。仮黄鉞・太宰・太師を贈られ、諡は粛武。皇建初年、文襄廟庭に配享された。子の晋明が跡を継ぎ、天統中に東莱王に改封された。晋明は俠気に富み勲貴の子孫の中で最も学問に心を留めた人物であったが、酒を好み放埓であった。賓客を招くたびに一度の宴で万銭を費やしてもなお倹約が過ぎると恨んだ。朝廷が重職に処そうとするたびに病と称して固辞し、人に「廃人が美酒を飲み名勝の地に向き合っている、どうして刀筆の吏となって古紙をめくることなどできようか」と語った。武平末年、尚書左僕射を除せられたが百余日で病を理由に辞した。