北史卷五十四 列傳第四十二 厙狄幹
厙狄幹(善無の人)。剛直寡黙な武人で、高歓の妹楽陵長公主を娶った姻戚として重用された北齊建国の元勲。文字を知らなかったが用兵に長け、河陰の役や芒山の戦いなど数々の軍事行動で活躍し、太宰にまで至った。
善無の人
- 曾祖の越豆眷は魏の道武帝の時代、功により善無の西の臘汗山一帯百里の地を割いて与えられた。のち部落を率いて北へ移り朔方に住んだ。幹は剛直寡黙で武芸に優れた。魏の正光初年、掃逆党に除せられ将軍を授けられ宮中の宿衛にあたった。家が寒冷の地にあったため酷暑を避けさせるべく、冬には京師に入り夏には郷里に帰ることを許された。孝昌元年、北辺の擾乱に際し雲中に奔ったが刺史費穆に爾朱栄のもとへ送られた。軍主として栄の洛陽入りに従った。のち神武の挙兵に従い四胡を韓陵で破り広平県公に封ぜられ、まもなく郡公に進んだ。河陰の役では諸将が大勝する中、幹の軍だけが退いたが、神武はその旧功を重んじ結局咎めなかった。まもなく太保・太傅に転じた。高仲密が武牢で叛くと神武がこれを討伐した際、幹を大都督とし前駆させた。幹は出立の際、自宅にも寄らず侯景に会いに行き食事も摂らなかったため、景は騎兵を遣わして食を届けさせた。当時周文自ら軍を率いて洛陽に至り軍容は非常に盛んであったため、諸将は南進を躊躇ったが、幹は決断して河を渡り、神武の大軍が続いて到着し大勝した。帰還後は定州刺史となった。吏事に不慣れで事務が滞ることも多かったが、清廉倹約を旨として吏人に嫌われなかった。太師に遷った。天平初年、幹の元勲により章武郡王に封ぜられ太宰に転じた。幹は神武の妹楽陵長公主を娶り、姻戚として遇された。挙兵以来常に大軍を統率し威望は重く諸将から服された。その一方で最も厳格で猛烈な性格であった。かつて京師を訪れた際、魏の譙王元孝友が公門でふざけて度を越したことを言ったが、面と向かって咎める者がいない中、幹は正色して責めたため孝友は大いに恥じ、当時の人々はこれを称賛した。薨じ、仮黄鉞・太宰を贈られ轀輬車(喪の車)を給され、諡は景烈。
- 幹は文字を知らず、署名は「幹」の字を逆さまに上から下へ書いた。当時の人はこれを「穿錘(錐を刺し通す書き方)」と呼んだ。また武将の王周という者は署名でまず「吉」と書いてから外側を書き足していた。二人とも孫の代になってようやく文字を知るようになった。幹は皇建初年、神武廟庭に配享された。子の伏敬は儀同三司の位で卒し、子の士文が跡を継いだ。
孫 士文(附伝)
- 士文は孤高な性格で、近隣や近親でさえ馴れ合わなかった。斉では章武郡王を襲封し領軍将軍の位にあった。周武帝が斉を平定すると山東の士大夫の多くが迎えに出たが、士文だけは門を閉ざし出なかった。帝はこれを奇として開府儀同三司・隨州刺史を授けた。隋文帝の受禅で上開府を加えられ湖陂県子に封ぜられ、まもなく貝州刺史を拝した。清廉苦節な性格で公の食料も受け取らず家には余財もなかった。子が官の厨房の餅を食べたことを咎め、獄で数日枷にかけ杖二百を科したうえ歩かせて都へ送り返した。僮僕は誰も外出できず、塩や菜は必ず領外で買わせた。出入りには必ず門を封印し、親戚や旧友との交際も慶弔も断った。法令は厳粛で吏人は震え上がり、道に落ちた物を拾う者もいなかった。些細な過失も深く咎め陥れた。かつて入朝した際、上(皇帝)が公卿に左蔵の宝物を好きなだけ持ち帰らせるという恩賜があったが、人々はみな重い物ばかりを取る中、士文だけは口に絹一疋をくわえ両手にも一疋ずつ持った。理由を問われると「臣は口も手もこれで十分です、それ以上は必要ありません」と答え、上はこれを不思議に思い特別に品を賜った。
- 士文が州に赴任すると奸邪や諂う者を摘発し、長吏の些細な収賄も一切許さなかった。千人を摘発して上奏し、みな嶺南に配流させた。親戚が見送りに来て州境じゅうで哭声が響いた。嶺南に至ると瘴癘に遭い十人中八九人が死んだ。それを聞いた父母妻子はただ士文を恨んで泣いたが、士文はこれを聞くと人を捕らえさせ、拷問を加えながら「哭孝」(親孝行を装って泣くこと)だと言って責めた。司馬京兆の韋焜、清河令河東の趙達はともに苛烈な性格であったが、長史だけは仁政を行った。当時人々は「刺史は殺し屋の政、司馬は蝮蛇の怒り、長史は笑いながら裁く、清河は生きたまま人を食う」と噂した。上はこれを聞き「士文の暴虐ぶりは毒獣を超える」と歎じ、ついに免官となった。まもなく雍州長史となり、人に「私は法に厳しすぎて貴顕にへつらうことができない、この官ではきっと死ぬだろう」と語った。着任すると法を厳正に執行し貴戚も避けず、賓客は誰もその門に近づかず多くの怨みを買った。
- 士文の従妹は斉の嬪であり容色に優れていたが、斉の滅亡後は薛公長孫覧に下賜された。覧の妻鄭氏がこれを妬み文献皇后に讒言したため覧はこれと離別させられた。士文はこれを恥じ以後会おうとしなかった。のち応州刺史の唐君明が母の喪にあるとき、これを娶って妻とした。これにより君明と士文はともに御史に弾劾された。士文は剛直な性格であったため獄中数日で憤慨して死んだ。家に余財はなく三子は日々の食にも事欠いたが、親戚や賓客で援助する者もなかった。