太安捍殊の人
- もと清河観津の家系という。祖の羅は魏の統万鎮将でこの地に居を構えた。父の楽は魏末、破六韓拔陵の乱に際し鎮将楊鈞と共に城を固守し、その中で殺された。泰が貴顕となると司徒が追贈された。泰の母はかつて風雷が突然起こり雨が降るような夢を見た。庭に出て見ると電光が目を眩ませ驟雨が降り注ぎ、目覚めると驚いて汗をかき、それにより身ごもった。予定の月を過ぎても産まれず大いに恐れると、ある巫が「川を渡って裾を洗えば産みやすくなる」と言い、水辺に向かった。すると忽然と一人の男が現れ「貴い子が生まれるだろう、南に移り住むがよい」と告げた。泰の母がこれに従うと、まもなく泰が生まれた。成長すると騎射を善くし勇略に富んだ。父兄が鎮で戦死したため、泰は自ら遺骨を負って爾朱栄のもとへ帰した。邢杲討伐の功で広阿子の爵を賜った。神武が晋州にあった頃、泰を鎮城都督に招き軍事に参謀させた。侍中・京畿大都督を重ね、まもなく御史中尉を領した。泰は勲戚として台にあり、多く摘発せずとも百官は畏れた。天平三年、神武の西討に際し泰は潼関から入るよう命じられた。四年、泰は小関に至り周文帝に襲われ全軍が全滅し、泰は自害した。泰が鄴を発つ前、鄴の恵化尼が「竇行台、去って帰らず」と歌ったという。出発前夜三更、突然朱衣冠幘の数千人が台に入り「竇中尉を捕らえに来た」と称した。宿直の兵吏はみな驚いたが、その者たちは数室に入りしばらくして去った。翌朝、門の鍵に異常はなく、人ではなかったと分かり、みなその敗死を予期した。大司馬・太尉・録尚書事を贈られ、諡は武貞。泰の妻は武明婁皇后の妹であった。泰は姻戚として遇されたが功名は自らの手で立てたものであった。斉の受禅で墓に祭告があり、皇建初年、神武廟庭に配享された。子の孝敬が跡を継ぎ儀同三司の位にあった。