北史卷五十四 列傳第四十二 高隆之

高隆之(字延興、洛陽の人、宦官徐成の養子)。高歓の義弟格として厚遇された北齊建国の元勲で、均田制の是正・洛陽宮殿の解体運搬・鄴都造営など内政に大きな功があった。晩年は文宣帝の逆鱗に触れ、公門の前で百余発の拳打を加えられて憤死し、遺族も迫害を受けた悲劇の人物。

年表(3件)

洛陽の人

  • 宦官の徐成の養子であった。若い頃は物を担いで運ぶ仕事をしていた。あるいは実父の幹が姑の婿の高氏に養われたためその姓に従ったとも言う。隆之がのち政権に参与する功を挙げると神武は自分の弟分として扱い、勃海蓚の出身と称した。父の幹には司徒公が贈られた。隆之は身の丈八尺、美しい髭をたくわえ深沈として志気があった。初め行台於暉に郎中として引き立てられ神武と深く結んだ。のち山東での挙兵に従い并州刺史を重ね、尚書右僕射となった。当時初めて均田制の田を人民に給する制度が始まったが、権貴はみな良田を占有し貧弱な者は痩せた地しか得られなかったため、隆之は神武に上申しこれを均等にした。また営造大将として十万の人夫で洛陽宮殿を解体し鄴へ運び、営造の制はすべて隆之に委ねられた。鄴の南城を増築し周囲二十五里とした。漳水が帝城に近いため長堤を築いて氾濫を防ぎ、また渠を穿って漳水を引き城郭を巡らせ、水車の碾磑(水力製粉施設)を造り時代の利便に資した。
  • 魏は孝昌以降、天下が多難であった。刺史・太守はみな当部の都督を兼ね、軍事がなくとも佐僚を立て、各地で煩雑な負担となっていた。隆之は真に辺境の要地でない所の兵馬を有する官についてはことごとく廃止するよう請うた。また朝廷の貴顕の多くが常侍を仮に帯びて貂蟬の飾りを得ていたため、隆之は自ら侍中を解く上表をし、仮の侍中服を着る者はみな罷めるよう請うた。詔はすべて上表の通りとなった。軍国多事のため名を冒して官を窃む者が数え切れないほどいたため、隆之は検括を上奏し、十日で五万余人を摘発した。しかし小人たちが騒ぎ立てたため隆之は恐れて中止した。起居の事を監修し司徒に進んだ。武定中、尚書令を除せられ太保に遷った。文襄が執政すると風俗は粛清されたが、隆之は時に受納があり文襄は尚書省で大いに責め立てた。斉の受禅で王爵に進んだ。まもなく本官のまま録尚書事となり大宗正卿を領し国史を監修した。隆之は小細工を好み、公家の儀仗や百戯の服制にたびたび勝手な改変を加え典故に従わなかったため世論に非難された。射堋(弓術訓練の的場)の土壇に三人の人形を立てて壮勇を表そうとしたところ、文宣がかつて東山に行き弓を射ながら「堋の上には猛獣を作って古の意義を残すべきではないか、なぜ終日人を射るのか」と隆之に問うたが、隆之は答えられなかった。
  • 先には文襄は崔暹・崔季舒らを重用していたが、文襄の崩御に際し隆之は文宣に彼らを害するよう進言したが許されなかった。文宣は隆之が旧臣であることから政事を委ねた。隆之の子が楊遵彦の前妻(帝の妹)と密通したため遵彦の讒言が日々至った。崔季舒らも旧怨から「隆之は訴訟人を見るたびに哀れみの態度を示し、自分が裁いたのではないと見せている」と讒言した。文宣は隆之が久しく重用され冤罪があると知りながら正すこともせず名を求めているのは大臣の義に反すると考えた。天保五年、尚書省に禁固された。隆之はかつて元昶と宴した際「王と交わる以上は死生を共にすべきだ」と語ったが、これを密かに告げる者がいた。また帝がまだ即位する前、隆之は常に帝を侮る態度をとっていた。帝が受禅しようとした際、大臣たちがみな時期尚早と言い、隆之もその中にいたため帝はこれを深く恨んだ。そのため大いに怒り「徐家の老いぼれめ」と罵り、壮士に命じて百余発の拳打を加えさせて放り出した。喉が渇き水を飲もうとする隆之を人が止めたが、隆之は「今日という日がいつまた来ようか」と言って飲んだ。その後、駕に従う途中で道中に死んだ。太尉・太保・陽夏王を贈られたが結局諡は得られなかった。
  • 隆之は学問こそなかったが文雅を尊び、士大夫や名流には必ず礼を尽くして接した。寡婦の姉が尼となると母のように仕えた。子弟の教育では常に文義を先とし、世人はこれを称えた。
  • 文宣の晩年、猜疑と迫害が激しくなり、隆之への憤りを追って、その子で司徒中兵の慧登ら二十人を目の前で捕らえた。慧登が命乞いをすると帝は「やむを得ない」と言い、鞭で鞍を叩く合図で一斉に首を斬らせ、みな漳水に投げ込んだ。隆之の塚を暴いて屍を出すとその容貌は崩れていなかった。骸骨を斬り焼いて漳水に棄てた。天下はこれを冤罪と見なした。隆之の嗣は絶えたが、乾明中、詔により兄の子の子遠が隆之の後継となり陽夏王の爵を襲い財産を返還された。
  • 隆之は神武の信頼を得た一方で性は陰険であった。儀同三司の崔孝芬は婚姻の話がまとまらず、太僕卿の任集は営造の事を共にして意見が合わず、瀛州刺史の元晏は請託が叶わなかったが、隆之はいずれもその罪をでっち上げて誅殺し、ついには一族滅亡に至った。論者はこれを報いだと言った。