咸陽石安の人
- 祖の通は沮渠氏に仕え中書舎人となった。沮渠氏の滅亡後、北辺に移り住んだ。騰が貴顕となると魏朝は祖父に司徒を追贈し、父の機には太尉を贈った。騰は若くして質朴で吏事に明るかった。魏の正光年間、北方の擾乱に際し爾朱栄に帰した。まもなく斉神武の都督長史となり、神武が晋州にあるときも長史として引き立てられ石安県伯に封ぜられた。信都での挙兵の際も常に誠意をもって謀策に参与した。郡公に累進し、侍中となり尚書左僕射を兼ねた。当時、魏の京兆王愉の娘で寡婦となった平原公主を騰は娶りたいと願ったが、公主は侍中の封隆之を望んだ。騰は隆之を妬み互いに讒言し合った。神武は騰の官を免じたが、まもなく復した。斛斯椿と共に機密を掌った際、隆之は禍を恐れ晋陽へ逃れた。神武が椿を討伐する間、騰は并州の政務を代行した。尚書左僕射として内外の事をすべて把握した。司空を兼ね侍中を除せられ尚書令を兼ねた。西魏が南袞州を攻めると詔により騰が諸将を率いて討伐に向かったが、騰は臆病で威略に欠け敗れて帰った。さらに司徒に除せられ他の官はそのままとされた。かつて北辺の乱の折に娘を一人失い、貴顕となってから捜し求めたが見つからず、人の婢になっているのではと疑っていた。司徒となると奴婢で良民であると訴える者をみな解放し、千人でも赦したいと願い娘を見つけようとした。神武はこれを知って大いに怒り司徒を解任した。まもなく尚書左僕射・太保、なお侍中として太傅に遷った。
- 初め、博陵の崔孝芬は貧家の娘賈氏を養女とした。孝芬の死後、その妻元氏は鄭伯猷に再嫁し賈氏を連れていったが、賈氏に容色があったため騰はこれを妾に納れた。妻の袁氏が死ぬと、賈氏に子があることから騰は正妻に立て丹陽郡君に封じるよう詔された。さらに袁氏の爵を娘に回授するよう請うた。礼を犯し情欲のままに振る舞うことがこの類であった。
- 騰は早くから神武に仕え、神武は深く信頼して魏朝に置き心腹として頼んだ。しかし志気は驕り高ぶり、人事の与奪も思うままにし、賄賂を限りなく貪り、財なくして官位も贈位も動かなかった。銀器を隠し盗んで私物とし、小人と馴れ合い専ら聚斂に励んだ。高岳・高隆之・司馬子如とともに「四貴」と呼ばれたが、不法で専横なことは騰が最も甚だしかった。神武・文襄はたびたび叱責したが最後まで改めず、朝野は深くこれを非難し嘲笑った。武定六年に薨じ、太師・開府・録尚書事を贈られ、諡は文。天保初年、騰の佐命の功により詔してその墓に祭告した。皇建中、神武廟庭に配享された。子の鳳珍が跡を継いだが凡庸暗愚で、儀同三司として卒した。