河南洛陽の人、魏昭成皇帝の五世孫
- 高祖の虔は陳留王。景安は沈着で見識があり、若くして騎射を得意とし人に仕えることに長けた。父の永は代郡公の位を回して景安に授けた。魏孝武帝の関中入りに従った。天平末年、周・斉が交戦する中、景安は陣で東に帰した。芒山の戦いでは功により西華県男を賜り代郡公はそのままであった。景安は馳騁に妙を得て容儀もあり、梁の使者が来るたびに斛律光・皮景和らとともに客と騎射で応対し、見る者はみな称賛した。天保初年、興勢伯に別封され定襄県令を帯び、高氏の姓を賜り兼七兵尚書を重ねた。
- 当時長城を築き始めた頃で鎮戍がまだ整っていなかったため、詔により景安は諸将とともに塞に沿って守備を担当した。統率する範囲が広く配下の兵士も財に富んでいたため賄賂が公然と行われていたが、文宣が聞いて使者を遣わし調べさせたところ景安だけは些細な過失もなかった。帝は深く感嘆し、没収した贓絹五百疋を景安に賜って清廉さを表彰した。孝昭帝がかつて功臣と西園で宴射を行った際、的を堂から百三十歩離した場所に置き命中した者に良馬や金玉錦彩を賜るとしたが、ある者が獣の頭に命中させ鼻からわずか一寸のところであった。最後に景安が矢を放とうとすると、帝は景安に解かせ(射をやめさせようとしたのか、逆に射させたか不明瞭だが)、景安は満を持して弓を引き獣の鼻に正確に命中させた。帝は感嘆し馬二疋と玉帛など様々な品を通常より多く賜った。
- 天統四年、豫州刺史を授けられ開府儀同三司を加えられた。武平三年、行台尚書令を授けられ刺史は元のままとした。暦陽郡王に封ぜられた。景安は長く辺境の州にあり人々はこれに安んじた。管内は蛮族が多く漢人が少なかったが、景安は恩威をもって治め皆が安んじ和した。武平末年、召されて領軍大将軍を拝した。周に入り、大将軍・義寧郡公として稽胡を討ち、戦没した。
- 初め、永の兄祚は陳留王の爵を襲った。祚が没すると子の景皓が跡を継いだ。天保年間、元氏の一族で親しい者を誅殺する政策が取られ、景安のように疎宗を高氏に改姓させる議が起こった際、景皓は「どうして本宗を棄てて他姓に従えようか。大丈夫たるものむしろ玉として砕けても、瓦として全うすることはできない」と言った。景安はこれを文宣に告げ、景皓は捕らえられ誅殺され、家族は彭城に流された。これにより景安だけが高氏の姓を賜り、他の一族は本姓のままとされた。
- 永の弟の子である豫、字は景豫は容姿美しく器量があった。景安が景皓の不敬な発言を告げた際、豫を引き合いに出し呼応したと言ったが、豫は占(弁明)して「その時は袖で景皓の口を塞ぎ『妄言するな』と言った」と述べ、景皓に問うても豫の言葉と一致したため罪を免れた。東徐州刺史として卒した。