北史卷五十三 列傳第四十一 綦連猛

代の人

  • その先祖は姫姓で、六国末に乱を避けて塞外に出て祈連山に拠り、それにより山を姓とした。北人の訛りで綦連となった。父の元成は燕郡太守。猛は若くして志気があり弓馬を得意とした。初め爾朱栄の親信であった。栄が殺されると爾朱兆に従い洛陽に入った。猛の父母兄弟はみな山東におり、爾朱京纏が神武に投じようとして猛を伴おうとし、矛を挙げて「私に従わなければ死だ」と迫ったため従った。城から五十里余り行ったところで、猛は元来兆から恩を受けていたため京纏に背き再び兆に帰した。兆の敗北後、猛は斛律羌挙・乞伏貴和とともに逃亡したが捕らえられ各々杖百を科された。猛は尉景に、貴和は婁昭に配属されたが、羌挙は元酋長の子であったため配属先がなかった。まもなく三人はいずれも神武の親信となった。のち都督爾朱文暢が反逆を企てた際、猛は「昔その父兄に仕えた身として、今日死を受けようとも告げて殺すことは忍びない」と言った。神武はこれを聞き「人に仕えるとはこうあるべきだ」と言い、その罪を許してますます親しんだ。軍功により広興県侯に封ぜられた。梁の使者が来聘し武芸を競いたいと言うと、文襄は猛を館に遣わし応対させた。両側に鞬(弓入れ)を帯び左右に馳射し、強弓の引き比べでは梁人が両張(各三石)を引くと、猛はさらに四張を重ねて引き超えた。梁人は感嘆して服した。天保初年、東秦州刺史を授けられた。河清三年、開府を加えられた。突厥が晋陽に迫った際、勅により猛に敵情偵察をさせると、一騎の将が抜け出して挑んできたため猛はこれを斬った。
  • 天統五年、并せて省いた尚書令・領軍大将軍を授けられ山陽王に封ぜられた。猛は和士開の死後、次第に朝政に関与するようになり、疑議や人事の決定も猛に相談されるようになった。趙彦深は猛が武将の中で奸佞を憎み議論に見るべきものがあるとして機密事に引き入れた。祖珽は猛と彦深がかつて琅邪王を推戴したことを奏上し不穏な意図があると讒言し、これにより猛は定州刺史として出され、彦深も西兗州刺史としてその日のうちに旅立った。以前から「七月に稲を刈るのは早すぎる、九月に糕を食べるのはまだ良くない、山を尋ね虎を射ようとしても、放った矢はかえって趙老(趙彦深)に当たる」という童謡があったが、この時その言葉が的中した。猛が牛蘭に至った時、和士開が殺された際に猛も事情を知っていたと告げる者があり、召還されて王爵を削られ開府として州に赴任することとなった。任地では寛恵清慎な政治を行い吏人に称された。淮陰王阿那肱は猛と旧交があり引き立てようとしたが韓長鸞らに妨げられた。のち膠州刺史に任じられ、さらに大将軍に除せられた。斉の滅亡後は周に入り卒した。
  • 初め猛は尉興慶・謝猥餒とともに射を善くし慎み深く神武に仕えていた。神武が人相見に見させると「猛は大貴、尉・謝は官位を得られない」と言われた。芒山の役で興慶が神武の窮地を救い、そのために敵軍に殺された。神武は「富貴は天が定めるものだ」と歎いた。猛は結局人相見の言葉通り、栄寵を受けたまま生涯を終えた。興慶の事跡は『斉本紀』に見える。興慶は陣に入るたびに自ら背に名を記していた。神武はその屍を捜させ祭った。死んだ場所に浮図を建て、世に高王浮図と呼ばれた。追贈により儀同・涇州刺史を贈られ、諡は閔壮。