北史卷五十三 列傳第四十一 薛脩義

河東汾陰の人

  • 曾祖の紹は魏の七兵尚書。祖の寿仁は秦州刺史・汾陰公。父の宝集は定陽太守。
  • 修義は若くして狡猾で侠気に富み財を軽んじた。魏の正光末年、天下に兵乱が起こると三千人を集めた者を別将にするとの特詔が出され、脩義は七千余人を集めて安北将軍・西道別将に任じられ、軍功により竜門鎮将を拝した。
  • のち宗人の鳳賢らが反乱を起こし鎮城を包囲すると、脩義は天下が乱れているのに乗じて自ら黄鉞大将軍と号して逆に転じた。詔により都督宗正珍孫が討伐に向かったが、軍が到着する前に脩義は悔悟し、招慰の大将を一人送るよう乞うて降った。鳳賢らはなお険に拠って降らなかったが、脩義が書を送ると降った。脩義は鳳賢に竜驤将軍・陽夏子を授け、汾陰県侯に改封された。爾朱栄は脩義の変わり身の早さを疑い晋陽に護送させ、高昂らとともに拘禁した。栄が洛陽に赴く際も同行させ駝牛署に置いた。栄の死後、魏の孝荘帝は脩義を弘農・河北・河東・正平四郡の大都督とした。当時神武は晋州刺史であり脩義に会うと厚く遇した。韓陵の勝利により脩義は并州の政務を代行した。孝武帝の関中入りに際し、神武は脩義を関右行台とし、竜門から黄河を渡らせ西魏の北華州刺史薛崇禮を招き降した。
  • 初め神武が晋陽の城を大きく築こうとした際、中外府司馬の房毓が「もし賊がここまで到達するなら、城があっても何の益があろうか」と言い取りやめた。沙苑の敗戦後、秦・南汾・東雍三州の民を并州に移し、さらに晋陽を棄てて家族を英雄城へ移そうとした。脩義は「晋州が敗れれば定州も保てません」と諫めたが、神武は怒り「お前たちはみな私を裏切っている、以前私が并州の城を築くよう言ったのを聞かなかったから、今こうして行き場がないのだ」と言った。脩義は「もし守りきれなければ誅殺されましょう」と答えた。斛律金は「あの漢の小僧に守らせ、家族を人質に取り、兵馬は与えるな」と言ったが、神武はこれに従いつつも脩義に晋州の政務を代行させた。西魏の儀同長孫子彦が城下に迫ると脩義は門を開いて伏兵を配し、子彦は虚実を測りかね退いた。神武はこれを嘉して晋州刺史に任じた。のち斉州刺史となったが不正な蓄財により除名された。晋州を守った功により官爵を復された。まもなく軍功により正平郡公に進み開府を加えられた。天保中、太子太保として卒し司空を贈られた。子の文殊が跡を継いだ。
  • 脩義の従弟の嘉族もまた豪爽な性格で、神武に従い四胡を韓陵で平定した。華・陽二州刺史を歴任し官職にあって卒した。子の震、字は文雄は廉州刺史の位にあり軍功で著名であった。さらに南汾・譙二州の刺史を歴任した。