北史卷五十三 列傳第四十一 慕容紹宗

慕容紹宗(字紹宗、前燕慕容皝の子太原王恪の後裔)。爾朱栄の従甥として仕え、栄の死後は爾朱兆に従ったが、兆の敗北後に神武(高歓)に帰順した。侯景の乱では東南道行台として侯景を渦陽で破る大功を挙げたが、王思政の潁川包囲戦の最中、暴風により船が流され溺死した。武略に優れながら悲劇的な最期を遂げた武将として史論に評される。

年表(2件)
  • 元象初年軍功により公に進み御史中尉を重ねる
  • 皇建初年功により文襄廟庭に配享される

慕容晃の第四子太原王恪の後裔

  • 曾祖の騰は魏に帰順し代に住んだ。祖の郁は岐州刺史、父の遠は恒州刺史。紹宗は容貌が重厚で言葉少なく深沈で胆略があった。爾朱栄はその従舅の子であった。栄が洛陽に入った際、密かに紹宗に「洛中の人士は繁栄しており奢侈が風俗となっている、除かねば制しがたい。百官の出迎えに乗じて皆殺しにしようと思うがどうか」と告げると、紹宗は「太后は淫虐で天下はこぞってこれを見捨てています。公はすでに忠義を掲げていながら急に多くの士人を皆殺しにしようとするのは、実に策とは言えません」と答えたが、栄は従わなかった。のち軍功で索盧侯に封ぜられ爾朱兆の長史に遷った。兆の敗北後、紹宗は烏突城で神武に見え、爾朱栄の妻子と兆の残兵を携えて帰順した。神武はなお恩礼を加え官爵をそのままとし、軍謀兵略にも参与させた。
  • 鄴への遷都に際し紹宗は高隆之とともに府庫・図籍の事を掌った。青州刺史を重ねた。丞相記室の孫搴が紹宗に属し、その兄を州主簿にしようとしたが紹宗は用いなかった。搴は神武に「紹宗はかつて広固城に登って長歎し、親しい者に『大丈夫たるもの先業を復す理はないものか』と語っていた」と讒言し、これにより召還された。元象初年、軍功により公に進み御史中尉を重ねた。梁人劉烏黒が徐方に侵攻すると徐州刺史を授けられ烏黒を捕らえて殺した。帰還後、尚書左僕射を拝した。
  • 侯景が反すると紹宗を東南道行台とし開府を加え燕郡公に改封し、大都督高岳とともに梁の貞陽侯蕭明を寒山で捕らえた。軍を返して侯景を渦陽で討った。当時景の軍は非常に強盛で、韓軌が討伐に向かうと聞くと「豚の腸を食う小僧め」と言い、高嶽が向かうと聞いても「あれは兵は精鋭だが人物は凡庸だ」と言い、諸将を侮っていたが、紹宗が来ると聞くと鞍を叩いて「誰が鮮卑の小僧に紹宗を遣わす知恵をつけたのか。そうならば高王(神武)はまだ死んでいないのか」と言った。紹宗と戦うに及び諸将はたびたび敗れ先陣を切ろうとする者がなかったが、紹宗が自ら兵を率いて真っ直ぐ進むと諸将もこれに続き大勝した。
  • 西魏が王思政を潁川に拠らせると紹宗は再び南道行台となり、太尉高岳・儀同劉豊とともにこれを包囲し洧水を堰き止めて城に注いだ。この頃紹宗はたびたび不吉な夢を見て嫌がり、密かに側近に「私はここ数年、鬚に蒜のような白毛(縁起の良い兆し)があったが、昨日から急になくなった。蒜とは算(命数)のこと、私の命数は尽きたのだろうか」と語った。まもなく劉豊と堤に臨んだ際、北に土煙が見えたため艦に入り同座したが、突然東北から暴風が吹き纜が切れて艦は敵城の方へ流された。紹宗は逃れられぬと悟り水に身を投げて死んだ。三軍の将士は皆悲しみ、朝廷も嘆いた。太尉を贈られ、諡は景恵。

慕容士肅(長子、附伝)

  • 謀反により法に伏した。朝廷は紹宗の功を重んじ罪を士肅一身に留めた。皇建初年、文襄廟庭に配享された。士肅の弟は三蔵。

慕容三藏(附伝)

  • 幼くして聡敏で武略に富み、父の風があった。武平初年、燕郡公の爵を襲い、軍功により武衛大将軍に至った。周軍が鄴に入り斉の後主が東へ逃れると、三蔵は鄴宮の留守を委ねられた。斉の王公以下がみな降る中、三蔵はなお拒戦した。斉の平定後、武帝に引見され厚く礼遇され儀同大将軍を授けられた。隋の開皇元年、呉州刺史を授けられた。九年、襄陽公韋洸の副将として嶺南を討平した。広州に至り洸が流れ矢に当たり卒すると、詔により広州道の行軍事を検校し、功により大将軍を授けられた。のち廓州刺史に遷り人々はこれを称え文帝もたびたび慰労した。畜産が繁殖し醍醐を献上したため物百段を賜った。十三年、州境の連雲山が鳴動し万歳を三度称えたと伝わり詔により諸国に頒布され、山に使者を遣わし祭祀を行わせた。その日、瑞雲が上に浮かび雉や兎が壇のそばに馴れ寄ったと使者が報告すると、上は大いに喜び河内県男に改封した。畳州総管・和州刺史・淮南郡太守を歴任し至る所で善政を行った。金紫光禄大夫に改められ、大業七年に卒した。