北史卷五十三 列傳第四十一 莫多婁貸文

太安狄那の人

  • 驍勇果敢で胆気があった。神武の挙兵に従い爾朱兆を広阿で破る功で石城県子に封ぜられ、四胡を韓陵で破る功で侯に進んだ。爾朱兆を赤谼嶺で平定した際、兆は自縊し貸文がその屍を得た。天平中、公に進み晋州刺史となった。元象初年、車騎大将軍・儀同三司・南道大都督を拝し、行台侯景とともに独孤信を金墉城に攻めた。周文帝が函谷から出撃した際、景と高昂はその到着を待とうと議したが、貸文は自ら部下を率い前鋒を撃たせてほしいと請い、景らは固く許さなかった。貸文は勇猛で独断が過ぎ、命に従わず軽騎千で軍前に出て斥候し、周軍に討たれて死んだ。尚書左僕射・司徒公を贈られた。
  • 子の敬顕は跡を継ぎ、剛直で職務に勤しみ若くして武力で知られた。常に斛律光の征討に従い戦功を重ねた。光はいつも敬顕に前駆として陣を布かせ、夜中も巡察させ時に夜通し眠らないこともあった。敵に対しては将士の配置も任され重んじられた。位は開府儀同三司に至った。武平七年、後主に従い平陽で敗れて帰り、并州で唐邕らとともに安徳王を推して尊号を称させた。安徳王が敗れると武将はみな周軍に投降したが、敬顕だけは鄴に走り帰り司徒を授けられた。周武帝が鄴を平定すると捕らえられ、晋陽に留まらなかった罪を責められ閶闔門外で斬られた。