北史卷五十三 列傳第四十一 韓賢
広甯石門の人
- 壮健で武勇があった。初め葛栄の反乱に加わったが、栄が破れると爾朱栄に左右として抜擢された。栄の死後、爾朱度律は賢を帳内都督とし汾陽県伯に封じた。のち広州刺史となった。斉神武が挙兵すると、度律は賢が日頃から神武に知られていることを恐れて召還しようとしたが、賢は行こうとせず密かに周辺の蛮族に多くの烽火を上げさせ、寇が来たと見せかけて留まることができた。賢は密かに神武へ誠意を通じさせ、のち建州刺史を拝した。天平初年、洛州刺史となる。州人の韓木蘭らが挙兵すると賢はこれを破った。自ら検分して武具を接収していたところ、追い詰められて屍の間に隠れていた賊の一人が突然起き上がって賢に斬りつけ、脛を断たれて没した。かつて漢の明帝の時代、西域から白馬が仏経を背負って洛陽に送られ、それにより白馬寺が建てられ、その経函がこの寺に伝わっていた。作りは古朴で、代々古物として尊重されてきたが、賢はこれを知りつつ斫り破った。まもなく死んだため、論者はこれが禍を招いたのだと言った。尚書令・司空を贈られた。子の裔が跡を継いだ。