北史卷五十三 列傳第四十一 劉豐

普楽の人

  • 雄々しい姿と気概があり果断な勇気は人に優れていた。破六韓拔陵の乱で守城の功により普楽太守・山鹿県公・霊州鎮城大都督となった。賀拔岳と霊州刺史曹掞が不和になった際、豊は掞を助けて守った。岳が自ら掞を討とうとした矢先、侯莫陳悦に殺された。周文帝は行台趙善と大都督万俟受洛幹を遣わして再び城を攻囲し、河水を引いて浸したが、掞と豊は堅く守り抜いた。豊はのち東へ神武のもとへ奔り、南汾州刺史となった。河陰の役では豊の功が最も大きく、神武はその手を執って賞賛した。王思政が長社に拠ると豊は高嶽らとともにこれを攻めた。先んじて「大魚が道を歩く」という流言があり百姓を苦しめていたが、豊は水攻めを献策し洧水を堰き止めて城に注ぎ入れ、水位が上がると魚や鼈が城内を泳ぐほどになった。城が陥落寸前になったとき、豊が行台慕容紹宗とともに見ていると突然東北から暴風が吹き、昼にもかかわらず暗くなり砂礫が飛び、船の纜が切れて城下に流された。豊は土山に向かって泳ごうとしたが波に阻まれ間に合わず、西軍に鉤で引っかけられ紹宗ともども殺された。豊は勇壮で戦いを善くし、死の日には朝野が驚き惜しんだ。大司馬・司徒公・尚書令を贈られ、諡は武忠。子の曄が跡を継いだ。第三子の龍は巧みな才があり地位も高く、隋の開皇中に将作大匠を歴任し領軍大将軍で卒した。八子はいずれも嫡妻の子ではなかったが、一人が没するたびに他の子らはみな三年の喪に服し、武平・仲暐が没した際には諸弟が解官を願い出たが朝廷はその義を重んじて許さなかった。