北史卷五十 列傳第三十八 高道穆

遼東の人と自称、字道穆(本名恭之)。御史中尉として権豪を恐れず糾弾する硬骨の官僚として知られ、爾朱栄・爾朱世隆にも直言した。爾朱兆の入洛後、前朝への忠義を理由に世隆に殺害された。

年表(2件)

御史中尉としての活動

  • 高恭之、字は道穆(字で世に通った)、自ら遼東の人と称した。祖の潜は献文帝初に陽関男を賜り沮渠牧犍の女を娶り武威公主・駙馬都尉となった。父の崇、字は積善、聡敏端謹で、公主の実家の事件により沮渠氏を継いだが景明中に本姓に復し洛陽令となり清断で知られ、滄州刺史を追贈され諡は成。
  • 道穆は経史に通じ名流と交わり、幼くして孤児となり兄に父のごとく仕えた。「見知られてこそ立身の意義がある、時に知られぬなら江海に退くべき」と語った。御史中尉元匡に召され御史となり権豪を憚らず糾弾、相州の前刺史李世哲(尚書令崇の子)の不法(人の家を強引に買い取り屋舎を広げるなど)を摘発しすべて破壊させ贓貨を上表した。爾朱栄の蠕蠕討伐では監軍を務め栄に憚られた。蕭宝寅の西征では行台郎中として軍機を委ねられた。兄の謙之が害されると身の安全を図り孝荘帝(当時侍中)に身を寄せ厚く保護された。即位後、龍城侯・太尉長史・中書舎人を兼ねた。元顥が武牢に迫った際、関中撤退を勧める声に対し道穆は関中の荒廃を理由に河内を経由しての東下を進言し帝はこれに従った。給事黄門侍郎・安喜県公。爾朱栄が師を退いて秋を待とうとした際、道穆は「還師すれば顥に守りを固めさせるだけ」と諫め栄はこれに従った。孝荘帝の政権回復後、栄への酒宴で「先の献策が無ければ社稷は危うかった」と語らせた。御史中尉・兼黄門に除せられ、李希宗・李繪・陽休之ら三十人の当代の名士を御史に選んだ。
  • 私鋳の薄銭が横行していることを憂え、漢文帝・武帝の故事を引いて大銭への改鋳を上表、これは後に楊侃の献策により永安五銖銭の鋳造として結実した。僕射爾朱世隆の失儀を弾劾し、帝の姉壽陽公主の車が清路を犯した際も棒で車を破らせ、帝は「高中尉は清直の人、公事を私恨で責められない」とこれを支持した。秘書図籍の整理も委ねられた。
  • 御史の風聞調査に冤罪が多いことを憂え、太和年間の廷尉司直の制度復活を上奏し、御史の糾劾と司直の覆審を両立させる制度を提案、詔はこれに従った。爾朱栄の死後、道穆は赦書を布告する任を託され、爾朱世隆らが大夏門北で戦った際は督戦を命じられ、太府卿李苗の断橋の計にも与し世隆らを北へ敗走させた。衛将軍・大都督・尚書右僕射・南道大行台に加えられた。爾朱兆の入洛に際し禍を懼れ病と称して去官したが、世隆は前朝への忠を理由にこれを害した。太昌中、車騎大将軍・儀同三司・雍州刺史を追贈された。子の士鏡は爵を襲い北豫州刺史となった。

謙之(高道穆兄)――地方行政と学識

  • 謙之、字は道讓、後母に孝を尽くし、経史・天文・算暦・図緯の書に通じ『老子』『易』を好んだ。父の爵を襲ぎ、孝昌中、河陰令代行の際、瓦礫を金銭に見せかけて馬を騙し取った盗賊を偽の処刑騒動で炙り出し検挙した。正式に河陰令となり二年間で治績を挙げた。当時、道穆も御史として名声があり、父子兄弟ともに官吏の評判を集めた。
  • 旧制で二県令(河南・河陰)が得ていた面陳の特権が廃止された際、上疏して復活を求め、豪家の関係者による盗みや逆恨みへの対処には旧制が有効であったと訴えた。詔は外部での検討に付された。
  • さらに、辺境の将帥が真の兵を集めず奴客で数を揃える弊害、近習・戚属の請託による官界の腐敗、頻繁な徴発による民の逃亡と、帰還後の困窮を憂え、徭役の軽減による帰農の促進を上奏した。霊太后はこれを左右への叱責に用いたため寵臣たちに憎まれ、国子博士に転じさせられた。
  • 謙之は袁翻・常景・酈道元・温子升らと親交を結び施しを好んだ。家僮を鞭打つ際も親を子の前で打たず、三子を生めば一人を免ずるなど寛容であった。父方の伯父沮渠蒙遜が涼を治めた縁から『涼書』十巻を著し、仏教を「九流の一家」として批判する論を著した。暦学にも通じ改暦の一家の法を撰したが世に行われなかった。鋳銭都将長史として三銖銭鋳造を求める上表を行い、周代・秦漢以来の銭の変遷を引いて、寇難の中での小銭鋳造が財用を助け百姓を救うと論じたが、詔が従おうとする中で卒去した。

謙之の死と謹之

  • 弟の道穆が正光中に相州刺史李世哲を糾弾し世哲の家に深く恨まれていたところ、世哲の弟神軌が霊太后の寵任を得ると、謙之の家僮の訴訟を口実に謙之を廷尉に禁固させ、赦免の直前に神軌の讒言で獄中に賜死させた。朝士はみな哀しんだ。著した文章百余篇は集録として残る。永安中、営州刺史を追贈され諡は康、一子に出身を与えて冤罪を明らかにした。
  • 謙之の弟謹之、字は道修。父の崇が本姓に復した後、謹之が沮渠氏を継いだ。