経歴と最期
- 賈顕度、中山無極の人。父の道監は沃野鎮長史。顕度は容貌雄偉で志気があった。当初は別将として薄骨律鎮を守り、正光末に北鎮が乱れると鎮人を率いて河を下り秀容に至り爾朱栄に留められた。栄に従い葛栄を破り石艾県公に封ぜられ南袞州刺史に累遷。栄の死後は梁に奔ったが普泰初に帰朝。爾朱度律らが韓陵で敗れると斛斯椿・弟の智らと共に河橋を先に占拠し爾朱氏を誅殺。孝武帝初、尚書左僕射に除せられ驃騎大将軍・開府儀同三司・定州大中正を加えられた。永熙三年(534年)、雍州刺史・西道大行台となり出発の餞別の席で「顕智は軽躁で去就を好む、我が家を覆すのはこの人物であろう」と述べたが、果たして孝武帝入関後に顕智は斉神武に同調し、孝武帝は怒って顕度に死を賜った。
智(賈顯度弟、字顯智)――経歴と最期
- 智、字は顕智、若くして胆力があり軍功で金紫光禄大夫に累進し義陽県伯に封ぜられた。爾朱仲遠が徐州刺史となると智は仲遠に従い彭城に赴いた。爾朱栄の死後、仲遠が挙兵しても智は従わず、荘帝に善しとされた。普泰初、洛陽に帰ると仲遠はその離反を怒り殺そうとしたが兄の顕度が世隆に厚遇されていたため世隆の取りなしで助かり公に進爵。爾朱度律らと共に韓陵で敗れた後、顕度・斛斯椿と爾朱氏誅殺を謀り、顕度が北中城を守り智らが京師に入って世隆兄弟を捕らえた。
- 孝武帝初、開府儀同三司・滄州刺史に除せられたが在州で貪欲放縦をきわめ人々の害となった。孝武帝が京師に召還した後、侍中を加え済州刺史として東郡に至ったが進まず、長寿津で相州刺史竇泰に破られた。天平初、晋陽に赴き、去就常なくのちに事に坐して死んだ。