北史卷四十九 列傳第三十七 斛斯椿
広牧富昌の人、字法寿。爾朱栄に仕え佞巧で信任を得たが、栄の死後は爾朱氏を裏切り、爾朱氏一族誅滅の中心人物となった。孝武帝の信任を得て権勢を振るったが、四十三歳で病没した。子の徴(士亮)は北周で雅楽再興に尽力する学者官僚となった。
年表(5件)
- 荘帝初(頃)528年陽曲県公に改封され栄の大将軍府司馬となる
- 普泰初531年節閔帝擁立の謀に参与し侍中・驃騎大将軍・儀同三司・城陽郡公を拝す
- 天和三年568年徴、周武帝に師法を評価され皇子らに授業する
- 天和六年571年徴、司宗中大夫を経て岐国公に進み小宗伯となる
- 開皇四年584年徴、五十六歳で薨去、諡「闇」とされる
爾朱榮への出仕と莊帝擁立への転換
- 斛斯椿、字は法寿、広牧富昌の人。先祖は代々莫弗大人。父の足(一名敦)は明帝の時に左牧令。河西で賊が起こり牧人が動揺すると椿は家族を率いて爾朱栄のもとに投じ、征伐に功を立て中散大夫に累進し外兵の事を掌った。椿は佞巧で栄の信任を得て軍の密議にも関与した。荘帝初、陽曲県公に改封、栄の大将軍府司馬となり、後に東徐州刺史。栄が死ぬと椿は憂懼し、梁が擁立した汝南王悦が境上に至ると州を捨てて悦に帰した。悦は尚書左僕射・司空公・霊丘郡公に任じたが、爾朱兆の入洛に伴い悦が南に去ると椿は再び背いて兆に帰した。節閔帝擁立の謀に参与し侍中・驃騎大将軍・儀同三司・城陽郡公を拝し、開府を加えられた。父足が死んだとの誤報に階を減じて追贈を願い出たが、後に生存を知って復官と父への車騎将軍・揚州刺史の授与が行われた。
- 椿は爾朱兆の専権を恐れ賀拔勝と共に世隆に正道を説いたが世隆は怒り椿を害そうとし、爾朱天光の救援で免れた。世隆・度律と兆が互いに疑心を抱くと椿と賀拔勝が調停に努め、兆は椿・勝を捕らえたが道理を説かれ許した。椿は勝に「天下は爾朱氏を怨んでいる。我らも滅ぼされよう、いっそ図るべきだ」と語り、天光らを洛陽に招いて斉神武討伐を進言。韓陵の敗戦後、椿は賈顕智らと桑の下で盟約し急行して北中城に入り爾朱氏の部曲を殺し尽くし、弟の元寿らに世隆・彦伯兄弟を襲わせ閶闔門外で斬った。世隆らの首を家の門樹に懸けた際、父の足に「爾朱と義兄弟の約をしながら、なぜその首を家門に懸けるのか」と咎められた。椿は世隆らの首を伝え、度律・天光を捕らえて斉神武に送った。
高歓との確執と晩年
- 神武が洛陽に入ると椿は賀拔勝に「先に高歓を制さねば逆に制されよう」と持ち掛けたが、勝は高歓との情誼を理由に止めた。孝武帝の即位後、椿は侍中・儀同開府・城陽郡公を拝し、父・子ともに栄達し当時の栄誉とされた。椿は自らの度重なる寝返りに不安を抱き、孝武帝に閤内都督部曲を置かせ武直の人数を増やし、遊幸や号令に自ら関与するようになり、軍謀朝政は椿が専断するようになった。南討と称し斉神武討伐の兵を集めさせ、自ら前駆大都督として黄河を渡り不意を突く策を進言したが、楊寛の諫言により帝は停止を命じ、椿は天象の兆しに従わなかったことを嘆いた。
- 帝が河橋に布陣させ、椿を洛から東の武牢へ遣わした後、賈顕智の裏切りで東軍が崩れ、帝は関中へ向かおうとし椿にも随行を命じた。尚書令・侍中・常山郡公を拝し司徒・太保・尚書令を歴任。軍事が続く中、椿だけが威儀を保ち先導の清路を許された。太傅に遷り、四十三歳で薨去。帝は自ら弔問し百官が哭礼に赴いた。東園秘器を賜り梁郡王景略が喪事を監護、大将軍・録尚書・三十州諸軍事・侍中・恒州刺史・常山郡王を追贈され諡は文宣、太牢で祭られた。のち大司馬に改贈され轀輬車を賜り、葬送には車駕が渭陽に臨み哭した。
- 帝はかつて椿に店舗数区と耕牛三十頭を与えたが、椿は国難未平の折に民と利を争うべきでないとして店舗を辞し牛のみ受け、日々一頭を屠って軍士に饗した。死後、家に余財はなかった。四子(悦・恢・徵・演)のうち演は斉神武に殺され、三子は関中に入った。
徵――学識と楽制改革
- 徴、字は士亮、博く群書に通じ特に三礼に精しく音律も解した。父の喪に居ては朝夕一溢の米のみで過ごすなど至孝であった。父の勲功により城陽郡公を賜った。大統末、通直散騎常侍から起家し兼太常少卿に累遷。
- 孝武帝の西遷以来雅楽が廃れていたが、徴は遺逸を博く採り典故を稽え新旧を整えて備えた。錞於という楽器が久しく絶えていたところ蜀から得た者が現れたが誰も識別できず、徴のみがこれを見分け干宝『周礼注』に依って芒筒で撚らせ清らかな音を出させ人々を感服させた。六官が建てられると司楽下大夫を拝し司楽中大夫に遷り、驃騎大将軍・開府儀同三司に進み内史下大夫に転じた。天和三年(568年)、周武帝は徴の師法を評価し皇子らに授業させた。宣帝は魯公であった頃、諸皇子と共に青衿を着け束脩の礼を行い徴に学び、みな夫子と呼んだ。天和六年(571年)司宗中大夫・行内史・攝楽部を経て岐国公に進み小宗伯に転じ、太子太傅・小宗伯を兼ねた。宣帝の即位後、上大将軍・大宗伯に遷った。武帝崩御の際、速葬を望む帝に対し徴は内史宇文孝伯らと共に『礼』の七月喪を固く請うたが許されなかった。
徵――失脚と晩年
- 太子時代の宣帝の傅育を怠ったとして除名された鄭訳が親愛されて内史中大夫に復し、新楽(十二月それぞれ一笙、各笙十六管)を献じた。帝は徴に議論させると、徴は音律の理に合わないことを詳しく駁論し、鄭声の乱れを憂え「音楽とは情性を和し風俗を移し天地を動かし鬼神を感じさせ禍福・盛衰に関わる」と述べ、笙管以外に不要な設備が要ることなどを理由に反対した。帝はこれを容れ鄭訳の献策を停止させた。
- 武帝の山陵の後、帝が楽を作ろうとした際も徴は『孝経』の「楽を聞いて楽しまず」を引いて反対したが、鄭訳が「聞くと言う以上皆無ではない、奏するのは差し支えない」と反論し、帝は訳の議に従った。訳はこれを恨みに思った。帝がその後放埒を極めると、徴は武帝の恩に報いんと上疏して帝の過失を極諫したが容れられず、訳の讒言により獄に下された。獄卒張元平が哀れんで壁に穴をあけて逃がしたため元平は百回近く鞭打たれたが口を割らなかった。徴は人家に匿われた後、赦により免れたが除名のまま留め置かれた。
- 隋文帝の即位後、旧例により官爵を復し太子太傅に任じ、楽書の修撰を詔した。開皇四年(584年)、五十六歳で薨去。かつて隋文帝が大司馬であった頃、外姻の喪に徴が弔問したが長く出てこなかったことを文帝は恨みに思っていたといい、死に際して諡を「闇」とされた。子の該が嗣いだ。徴の撰した『楽典』十巻がある。
恢(斛斯椿兄)と政(恢の孫)
- 兄の恢は散騎常侍・新蔡郡公。子の政が嗣いだ。政は聡明で器量があり、隋開皇中に軍功で儀同を授かり楊素に厚遇された。大業中、尚書兵曹郎となり信任を深めた。楊玄感兄弟と交際があり、遼東の役で兵部尚書段文振の死・侍郎明雅の罷免を経て帝の意は政に傾き兵部侍郎に遷り有能とされた。玄感の反乱に政は通謀し、玄縦らの逃亡も政の計略によるものであった。帝が玄縦の党を追及すると政は高麗に亡命したが、翌年帝の東征に際し高麗が和を請い政を送還。京師に鎖送され宗廟に報告された後、宇文述の請いにより常法を超えた極刑(縛って晒し公卿百僚に射させ、肉を割いて食させ、その後焼いて骨灰を撒く)に処された。
元壽(斛斯椿弟)
- 椿の弟元寿は剛毅で武力に優れ、彎弓は両石、左右に馳射した。吏部尚書を歴任し桑乾県伯に封ぜられた。孝武帝の即位後、爵を進めて公となり豫州刺史に除せられたが、車駕西巡の折に部下に殺され、司空公を追贈され諡は景荘。