北史卷四十七 列傳第三十五 陽尼
北平無終の人、字景文。代々慕容氏に仕えた家系。若くして博学で知られ国子祭酒となるが、中正在任時の疑いで免官され著述に専念した。子孫は固(剛直な諫臣)、休之(北斉の重臣)と続き、家系全体で北朝の政治・文化に大きな足跡を残した。
出自と学問
- 陽尼、字は景文、北平無終の人。代々慕容氏に仕えた家系である。尼は若くして学を好み群籍に博通し、上谷の侯天護、頓丘の李彪と同志として名を斉しくした。幽州刺史胡泥の表薦により秘書著作郎に徴された。中書学が国子学に改められると、中書監高閭・侍中李沖らは尼の碩学ぶりを推し国子祭酒とした。のち幽州中正を兼ねた。
- 孝文帝が朝に臨み、諸州の中正に各々の知る人材を挙げさせた際、尼と斉州大中正房千秋はともに自分の子を挙げた。帝は「昔一祁(祁奚が親子ともに挙げた故事)が史に名を残したが、今二奚がまた語り継がれるだろう」と評した。
- 幽州平北府長史・漁陽太守を帯びるはずが、赴任前に中正在任時に郷人の貨賂を受けた廉で免官となった。尼は「昔は仕えていなかった時も人を羨まなかったが、今日官を失っても本来の志と何ら変わらない。ただこれは我が宿志ではない、天命をどうしようもない」と自ら嘆じた。帰宅後は蔵書数千巻を有し、著した『字釈』数十篇は未完のまま卒した。その従孫で太学博士の承慶がこれを継ぎ『字統』二十巻を撰し世に行われた。承慶の従弟に固がいる。
固――陽尼の従孫
- 固、字は敬安。豪放で小節に拘らず、若い頃は任侠を好み剣客を好んで生業を治めなかった。二十六歳で改心して学を好み、篇籍を博覧して文才を得た。
- 太和中、大将軍宋王劉昶に従って義陽を征し、府法曹行参軍として板授された。昶は厳酷な性格で三軍が戦慄し誰も諫言できなかったが、固は諫めて直言し、昶は激怒して斬ろうとしたが、攻道の監督に当たらせた。固は軍中で勇断を示し、常に泰然として恐れる色がなく、昶はこれを奇特とした。軍の帰還後、孝文帝にこの事を伝えた。三十余歳で大将軍府参軍事に辟され、累遷して書侍御史となり多くの弾劾を行った。
- 宣武帝が広く得失を諮った際、固は上表して「今すべきは早く東宮を正し、師傅と保護の官を立て衛の官司を設けて民心を繋ぐこと、権衡を握り宗室を親しみ幹を強め枝を弱めて万世の計を立てること、賢良を挙げ不肖を退けて野に遺才なく朝に素餐なからしめること、政務に勤め人に怨嗟の声を上げさせぬこと、徭役を省き賦斂を薄くし学宮を修め旧章に従い農桑を貴び工商を賤しみ虚談を絶ち仏門の無用な費えを簡素化し飢寒を救うこと。その後器械を備え甲兵を修め水戦を習い呉会を滅ぼし封禅の礼を撰し軒轅・唐尭の軌に倣うべき」と述べた。
- 当時、宣武帝は臣下に任せて自ら親覧せず仏法を好んだ。尚書令高肇は外戚の権寵を恃み朝事を専決していた。また咸陽王禧らも罪により誅されており、宗室大臣は互いに疎遠となり畿内の民は労苦が甚だしかった。固はそこで『南北二都賦』を著し、恆代(旧都平城周辺)の田猟・音楽の奢侈を描きつつ中京の礼儀の式で節すべきことを説き、暗に諷諫した。
- 宣武帝末年、中尉王顕は邸宅が完成すると僚属を招いて宴を張った。酒たけなわ、顕が「この邸宅はどうか」と問うと、固は「晏嬰の狭小な家が今に流称され、豊屋は災いを生むと『周易』にある。これは仮の宿にすぎず、徳ある者だけが最後まで住まえる。公に努められよ」と答え、顕は黙した。後日、顕が「私は太府卿として府庫が充実したが、どう思うか」と問うと、固は「公は百官の禄の四分の一を収め、州郡の贓贖もすべて京の蔵に入れてこれを充てておられる。それでは多いとは言えません。ましてや聚斂の臣あれば盗臣あり、戒めねばなりますまい」と答え、顕は大いに不快を示した。ある人が固の言葉を顕に告げ口し、顕は固が米麦を過剰に請求したと奏し免官させた。固は門を閉ざして自ら守り、『演賾賦』を著して幽微通塞の理を明かした。また『刺讒疾嬖幸詩』二首を作り讒言と佞人を諷刺した(内容は讒言の害と佞人の醜態を戒める寓意詩であり、要旨は原文どおり長編で詳細は省く)。
- 明帝即位後、尚書考功郎中に除せられ、秀孝の考試で中第の者を叙任することを上奏し、これが慣例の始めとなった。大軍が硤石を征する際、僕射李平の行台七兵郎に敕され、李平は固の勇敢さを奇として軍中の大事を悉く諮り、水軍の節度も委ねた。固は奇計を用いて先んじて賊を攻め外城を得た。のち太傅清河王懌の推挙で歩兵校尉、汝南王悦の郎中令を領した。悦は若く不法な行いが多かったが、固は上疏して諫め、悦もこれを敬畏した。懌は喜び「適任を得た」とした。
- 洛陽令に除せられ、県で威風を示した。母の喪に丁り、哀慕して身を毀すこと甚だしく、杖に頼ってようやく立てたが、練禫の後も酒肉を進めなかった。当時五十歳を過ぎていたが、その哀しみの深さは郷党親族を感嘆させた。
- 清河王懌が太尉を領した際、固を従事中郎に辟したが、懌が害される前に発令が及ばず未奏のままであった。懌が元叉により殺害されると朝野は震え上がり、懌の諸子や門生僚吏は禍を恐れ姿を隠したが、固はかつて辟命を受けた縁でただ一人喪所を訪ね哀哭して長く弔った。僕射游肇はこれを聞いて「欒布・王脩に劣らぬ、まことに君子である」と嘆じた。
- 汝南王悦が太尉となり選挙が公正を欠き刑罰も濫用したため、固は元卿(元来悦の属官)であったにも関わらず国を離れてなお切諫の上疏を続けた(詳細は「悦伝」に見える)。のち悦は固を従事中郎に辟したが応じなかった。京兆王継が司徒となり官僚を高く選んだ際、固を従事中郎に辟した。府が解散すると前軍将軍に除せられ、揚州の勲賞の典を掌った。かつて硤石の役で先登の功があったが恩賞が及ばず、この時に至って尚書令李崇と勲を争い互いに上表し合った。李崇の権勢が盛んであっても固は理を曲げず、論者はこれを称えた。卒し、輔国将軍・太常少卿を追贈され、諡は文といった。
- 固は剛直で私欲を抑え、権勢を畏れず官は清潔で家に余財がなく、没する日には室に四壁のみで喪を弁ずる財もなく、親戚知友が棺を出す費用を出し合った。かつて固は自ら『終制』一篇を著し倹約を旨とし、臨終に諸子にこれに従うよう戒めた。子は五人、長子は休之。
休之――固の長子、東魏北斉の重臣として
- 休之、字は子烈。爽やかで気概があり学を好み文藻を愛し、時人は「賦もでき詩もでき陽休之」と評した。初め州主簿となった。孝昌中、杜洛周が薊城を陥すと、休之は宗室と共に章武に南奔し、さらに青州に転じた。葛栄の乱で河北の流民が多く青州に集まった。休之は変が起こると悟り、族叔の伯彦らに京師への潜行を勧めたが多くは従わなかった。休之は涙をのんで別れた。まもなく葛栄・邢杲の乱が起こり伯彦らは土人に殺され、陽氏一族は数十人が死んだが、休之兄弟だけは免れた。
- 荘帝の即位後、太尉記室参軍に累遷。李神俊が起居注を監じた際、休之を招き河東の裴伯茂・范陽の盧元伯・河間の邢子才とともに撰次に加わらせた。普泰中、太保長孫承業府属となる。のち勅により魏収・李同軌らと国史を修めた。行台賀拔勝が樊沔を経略した際、南道軍司として召された。魏の武帝(孝武帝)が関中に入ると、勝は休之に表を持たせて長安に参謁させた。当時斉神武(高歓)も休之を太常少卿に除するよう啓した。まもなく勝が南奔したため休之もこれに従い江南に至った。神武が静帝を推奉したと聞き、休之は梁武帝に啓して帰還を求め、文襄(高澄)は大行台郎中とした。
- 神武が汾陽の天池に幸した折、池辺で隠字ある石を得た。文に「六王三川」とあり、休之に意味を問うと「六とは大王の字、河洛伊を三川といい、大王が天命を受ければ終には関右を統べるでしょう」と答えた。神武は「世人が私を反すると言うが、これを聞けばまた紛紜を招く、軽々しく言うな」と戒めた。元象初年、荊州の軍功を録され新泰県伯に封ぜられた。
- 武定二年、中書侍郎に除せられた。先に中書は綸誥を専掌していたが、宣武帝以来その職掌は門下に移っていた。この時詔により旧に依ることとなり、休之は顕職を得た。魏収も散騎常侍として侍郎を兼領し、休之とともに詔命を掌り、世人はこれを中興と評した。人々は休之を「触藩の羝羊に乗り連銭の驄馬に乗って晋陽より鄴に向かい、書を懐に満載する」と戯れて嘲った。左丞盧斐が文書のことで請謁したのを、休之は神武に啓して禁止させたが、恩赦により咎めは免れた。
- 尚食典御、太子中庶子、給事黄門侍郎、中軍将軍、幽州大中正を歴任、侍中を兼ね、璽書を持って并州に赴き文宣(高洋)に相国・斉王への就任を諭した。魏より禅譲を受けるにあたり、晋陽から平陽郡に至った時人心がまだ一定していなかったため并州に戻ることとし、漏泄を恐れて往来人を止めた。休之は生来疎放な性格で、還った後にこの事を語ってしまい鄴中に知れ渡った。高徳正がこれを文宣に告げたが、文宣は怒りながらもすぐには発しなかった。斉が受禅すると散騎常侍・監修起居注に除せられたが、まもなく詔書の誤脱の咎で驍騎将軍に左遷された。これは先の漏泄の一件も影響したという。
- 文宣が郊天の礼を行った際、百官が従う中、休之は両襠甲を着て白い棓を手にした。魏収がこれを「義真(劉裕の子、劉義真の故事に擬えて)服し終わったか」と嘲ると、休之は「私は昔常伯として蝉冕を戴いたが、今は驍游として衫甲を被る。文も武も、卿にひけをとらぬ」と応じ、談笑して動じない様子に議者は感服した。禅譲の礼儀の制定に参与し始平県男を追加で封ぜられた。のち中山太守に除せられた。先任の韋道建・宋欽道が定州長史として中山太守を帯びていた頃、監臨の官が出行する際百姓の飲食に立ち入らせないという制を立て、あれば銭で償わせていた。休之は常にこれを非としていたが、いざ自ら郡に赴くと同じように行った。理由を問われ「昔非としたのは仁義を欠くからだが、今行うのは嫌疑を避けるためだ。本心ではないが、世渡りの難しさゆえだ」と答えた。中山では三年で二度甘露の瑞を得た。
- 文宣が崩じると休之は晋陽に召され喪礼を執り行い、魏収とともにあたった。尚書令楊遵彦が休之らと親しく、中書省で喪事を語った際、魏収は涙をこぼしたが休之は眉をひそめただけであった。後日遵彦が「昨日訃報を聞き、魏少傅は悲しみに堪えなかったが、卿はなぜ全く涙を流さなかったのか」と尋ねると、休之は「天保の代、魏侯(魏収)は特に厚遇されたが、私は凡人並みの扱いであった。佞りに哀しんで泣くのは本意ではない」と答えた。
- 皇建初年、度支尚書を兼ねた。昭帝が政道に心を留め政術を問うと、休之は賞罰を明らかにし官吏の選び方を慎み淫侈を禁じ民の患いを恤むことこそ政教の先とすべきと答え、帝はこれを深く納れた。大寧中、都官・七兵・祠部の三尚書を歴任。河清三年、西袞州刺史に出た。天統初年、光禄卿に召されて国史を監じ、まもなく吏部尚書に除せられた。休之は故事に詳しく氏族に通暁し、選用は才と地位ともに適切であった。前の国子助教熊安生は当時の碩儒であったが喪により解職され久しく用いられなかったのを、休之が国子博士に引き上げ、儒者はこれを喜んだ。休之自身は煩雑な職を好まず、選挙の任が長く続くことを「これは清華な官だが煩雑で私の楽しみを妨げ、まるで籠に入れられたようだ」と語った。武成帝崩後は頻りに閑職を願い出た。武平初年、中書監・尚書右僕射に除せられ、三年に特進を加えられ朝士と『聖寿堂御覧』を撰し、六年に尚書左僕射・中書監に正除された。
- 休之は若くして才名を得て人々に敬服され、外見は疎放でも内は謹厚であった。若い頃はやや性急な難点があったが晩年は温和で通じ合う人柄と称された。友を重んじ遊賞を好んだ。太常卿盧元明は人柄重厚で交際が少なく一流の名士としか交わらなかったが、休之が行台郎の頃から気安く交わり、文酒の会で意気投合し、郷里の人士は羨んだ。太子中庶子の平原の明少遐は名だたる風流人で梁が滅びて鄴に奔ったが、通聘の縁で休之と交遊し、その死後は妻の窮乏を休之が厚く助けた。尚書僕射崔暹は文襄に重用され権勢が朝廷に傾いたが、休之は請謁したことがなかった。暹の子達拏は幼くして聡敏で十余歳で五言詩を作った。梁との通聘の際、暹は達拏の詩を才学ある朝士に示し、梁の使者にも見せようとした。他の者は暹を憚って迎合したが、休之だけは「郎子は聡明で立派な器になろうが、まだ幼い子の文藻を遠方の人に示すのは早計であろう」と正論を述べた。休之の実直さはこの通りであった。元景(休之の字か祖珽の字と混同されるが原文のまま)は常に「今の直諫は陽子烈(休之)のみだ」と評した。
- 晩年、祖珽に『御覧』の撰修を勧め、書が成ると特進を加えられ、子の辟強を『御覧』の編修に参与させた。珽が失脚すると布告して先に隙があったことにした。鄧長顒・顔之推が文林館の設立を奏した際、之推は本来耆旧の貴人を入れる意図はなかったが、休之は迎合し、少年の朝請・参軍の徒とともに待詔に列した。世論はこれを軽んじた。魏収が国史を監じた際、『神武本紀』で高歓が西方の胡(爾朱氏)を平定した年を斉の紀元とした。収が斉州にいた頃、史官が志を改めるのを恐れ上表して論じた。収が朝に戻ると詔により朝賢を集めて議させ、休之は天保の年を紀元とする議を立てた。魏収の存命中はなお両論のまま決しなかったが、収の死後は暗に内外に働きかけて詔をその議に従わせた。のち中書監を領した際、人に「私はすでに三度中書監になった、これ以上何をするというのか」と語った。隆化年間に鄴に戻った際、朝廷は多くの遷任叙任を行い、休之は燕郡王に封ぜられた。休之は親しい者に「私は蛮奴ではないのに、なぜこの授爵か」と語った。こうした一連の言動は識者の批判を招いた。休之は学を好んで倦まず経史に博通し、文章は華美ではないが典正であった。魏収の存命中は深くその軽視を受けたが、収の死後は先達として推された。位望は高くとも虚心に人に接し、士大夫に愛重された。
- 北周の武帝が斉を平定すると、休之は吏部尚書袁聿脩、衛尉卿李祖欽、度支尚書元脩伯、大理卿司馬幼之、司農卿崔達拏、秘書監源宗、散騎常侍兼中書侍郎李若、散騎常侍兼給事黄門侍郎李孝貞、給事黄門侍郎盧思道、給事黄門侍郎顔之推、通直散騎常侍兼中書侍郎李徳林、通直散騎常侍兼中書舎人陸乂、中書侍郎薛道衡、中書舎人元行恭・辛徳源・王邵・陸開明ら十八人とともに徴召され、御駕に従って長安に赴いた。まもなく開府儀同に除せられ、例により臨沢県男に封ぜられた。納言中大夫・太子少保を歴任し、上開府に進み和州刺史に除せられた。隋開皇二年、任を罷めて洛陽で終わった。著した文集四十巻、また『幽州人物志』を撰し、いずれも世に行われた。
- かつて休之が洛陽にいて出仕しようとした頃、黄河の北の駅道を東から西へ行く夢を見た。道の南に高い塚があり、休之は歩いてその頂に登ると連花形の趺を持つ銅柱があった。西北の柱礎から一本の柱を掴むと柱が右に回った。休之が「柱よ三度回れば我は三公に至らん」と呪すると、柱は三度回って止まった。目覚めてから、鄴城東南にいるような感覚であったといい、その夢は後に実際に験があったという。
- 子の辟強、字は君大。性は疎放で才藝もなかったが、休之が文林館に引き入れたため世人に嗤われ蔑まれた。武平末年、尚書水部郎中となった。
綝之・俊之――休之の弟たち
- 休之の弟綝之は天平中に関中へ入った。次弟の俊之は兼通直常侍の位にあり、陳への聘使副として尚書郎を務めた。文襄の時代、俊之は多く六言の歌辞を作ったが、その内容は淫蕩で拙劣であり、世に流布して『陽五伴侶』と呼ばれ、写本として売買され市場で絶えなかった。俊之がある時市場を通りかかりこれを買い取って改めようとし、字の誤りを指摘すると、売り手は「陽五は古の賢人で、この『伴侶』を作った。あなたに何が分かるというのか、軽々しく論ずるな」と言い返し、俊之は大いに喜んだ。のち文林館に待詔となり、自ら「私は文集十巻を持つが、兄でさえ私が才士であることを知らない」と語った。
藻――固の従兄
- 固の従兄藻、字は景徳。若くして孤児となったが雅志を抱き経史を渉猟した。中書博士の位にあり、詔により礼官を兼ね、長安の燕宣王廟を拝した。帰還後、魏昌県男の爵を賜った。累遷して瀛州安東府長史となり、年老いて帰家した後、賊の杜洛周に囚われ発病して卒した。永熙中、幽州刺史を追贈された。子は斐。
斐――藻の子
- 斐、字は叔鸞。魏の孝荘帝の時、西袞州で流民を督護し功があり方城伯を賜った。広平王開府中郎を歴任し起居注を修めた。起部郎中に除せられ、通直散騎常侍を兼ね梁へ聘使した。梁の尚書羊侃は魏からの叛人であったが斐と旧知の間柄で、三度書を送り邸宅に招こうとしたが斐は応じなかった。梁人が「羊侃は久しく仕え、貴朝の政変を経てなお李・盧(他の亡命者)も邸に赴き会っている。卿はなぜそれほど固辞するのか」と問うと、斐は「柳下恵ならそれもできようが、私はできない」と答えた。梁武帝も自ら斐に「侃は極めて会いたがっている。今両国は和好しており、彼我の別を論ずる必要もあるまい」と説いたが、斐は終に辞退した。
- 帰国後、廷尉少卿に除せられた。石済で黄河が氾濫し橋が壊れると、斐は渡し場を白馬に移し、河中に石潬を築き両岸に関城を造営し、数年かけて完成させた。東郡太守陸士佩が黎陽の関河の景勝を利用し公家の苑囿にしようとしたが、斐は書を送り「国歩がようやく安定し民が疲弊から立ち直っていない今、軽々に徭賦を課すより民の隠れた苦しみを憐れむべきだ」と答え、これに従わなかった。天保中、都水使者に除せられ、詔により長城の築造を監督した。累遷して殿中尚書となり、本官のまま瀛州事を監じ儀同三司を拝した。卒し、中書監・北予州刺史を追贈され、諡は簡といった。子は師孝。
昭――固の従弟
- 中書舎人であった固の従弟昭、字は元景。史伝の学に通じ特に案牘(公文書事務)に長けた。斉の文襄の府で墨曹参軍となり深く親任され、陳元康・崔暹らと機密の謀議に参与した。崔甗が崔暹に告発された際、元景がその獄を成立させたが、邢子才の証言によって免れ、当時は元景が告発かつ上意に順じたと見なされた。文襄が禅譲を受ける日取りを定めた際、元景らに儀注の制定・詔冊の起草・官職の授与を命じたが、完了前に文襄が薨じ府は罷められた。天保初年、給事黄門侍郎に除せられたが、のち病気により近侍に堪えず青州高陽内史に出て郡で卒した。文集十巻がある。
靜立――昭の子
- 子の静立、性は淳孝で操行が清らかで正しく、言葉巧みで書簡に長けた。斉に仕え三公郎中となり、隋開皇初年に州主簿となった。