董紹
- 字興遠、新蔡鮦陽の人。学を好み文才があり、四門博士から中書舎人として宣武帝に重用された。豫州城人白早生の南叛に際し慰労の使者となるが賊に捕らえられ江東へ送られた。梁の呂僧珍・梁武帝から人物を評価され、梁武帝は魏との通好の意向を董紹を通じて伝えようとしたが(宿豫と漢中の交換案)、北魏はこれを容れなかった。
- 洛州刺史として小恵を施し人望を得た。蕭宝寅の長安反乱に「瞎巴三千を出して蜀子を生食する」と勇ましく上書し、孝明帝と徐紇の間で「本当に瞎か」との笑い話になった逸話。功により新蔡県男。爾朱天光の大行台従事、賀抜岳の開府諮議参軍。岳が高平へ牧馬に移った際「甯ぞ胡関の下と謂わんや、復た楚客の歌を聞く」と悲しみの詩を詠んだ。岳没後、周文帝(宇文泰)にも重んじられたが、孝武帝西遷後の御史中丞は不本意で、放埒な生活に陥った。孝武帝崩御後、周文帝が文帝(西魏)擁立の表を呂思禮・薛憕に作らせたが果たせず、董紹が第三の表を一気に書き上げ、周文帝に「文で至尊を動かせるのは董公だけだ」と称賛された。しかし即位後、朝廷を論難したことで賜死。孫が後を継いだ。