北史卷四十六 列傳第三十四 鹿悆

才知と忠節

  • 字永吉、済陰乗氏の人。祖父寿興は沮渠氏の庫部郎、父生は済南太守として献文帝に季秋馬射に招かれ驄馬と青服を賜るほど清廉を評価され、賭博で農事が疎かになる風を制した。悆は兵書・陰陽・仏典を好み彭城王勰の館客となった。徐州へ向かう途中、馬を休ませるため夜中に禾を盗んだ従者に代金を残す誠実な逸話が伝わる。
  • 真定公子直の国中尉として忠廉を勧める詩を贈った逸話(「嶧山万丈の樹…」)。梁州で兵糧の和糴に際し利益を得なかった清廉さも記される。
  • 孝荘帝の御史中尉時代、殿中侍御史として臨淮王彧の軍を監督。梁の豫章王綜が徐州で密かに帰順の意を示した際、単身赴いて綜の軍中に入り、成景俊・胡竜牙らとの緊迫した問答(元略に成りすました人物を巡る駆け引き、歳星の分野を用いた投降勧誘への機知に富んだ反論、殺気立つ景俊の前での豪胆な受け答え)を経て信頼を得、綜の投降交渉を成立させた。定陶県子・員外散騎常侍に封ぜられた。
  • 通顕の地位にありながら謙虚を貫き、自邸を持たず賃居で質素な生活を続け、孝荘帝はその清潔さを称え度々金品を賜った。東徐州の反乱(呂文欣による刺史元大賓殺害と梁への内通)を六州大使として樊子鵠と平定し文欣を斬首、金紫光禄大夫・尚書右僕射・東南道三徐行台。爾朱仲遠との戦では敗れて帰京。天平中(534〜537年)梁州刺史として滎陽の鄭栄業の反乱で州城が陥落し関西へ送られた。