北史卷四十六 列傳第三十四 成淹

外交儀礼での応対

  • 字季文、上谷居庸の人。文学と気概があり宋に仕え員外郎・領軍主として東陽・暦城の守備に従事。皇興中(467〜471年)慕容白曜に降り兼著作佐郎。献文帝が厳冬に漠北巡幸を計画した際、《接輿釈遊論》を上って停止させた。
  • 太和年間(477〜499年)文明太后崩御に際し、斉の使者裴昭明・謝竣が朝服での弔問を主張したのに対し、成淹が「玄冠不弔」の礼を引いて論駁し、昭明を言い負かして衰服での弔問を実現させた逸話が詳しく記される。
  • 別の使節庾蓽・何憲・邢宗慶らとの応酬では、南北の信義を巡る議論で宗慶を圧倒し、何憲の「なぜ于禁でなく魯粛のような真似をするのか」との皮肉に対し「陳平・韓信を目指しただけだ」と応じた。
  • 王肅の随行時、朝歌の故事を巡り「青州にも殷の頑民の子孫がいるはずだ」と揶揄され、「あなたの本籍徐州こそその類ではないか」と切り返し王肅を絶句させた。孝文帝は「成淹はこの一局で完勝した」と評し、王肅は淹の登用を勧めたが、王肅本人も孝文帝との軽妙なやりとりで「屈己して人を立てるのが自分の美点」と応じた。謁者僕射に転じた。
  • 遷都に際し家貧を配慮され洛陽移住を助けられ、孝文帝の南征に従軍中「敵を侮らず万全を期すべき」と諫言。徐州行幸では舟運を任され、黄河の急流での危険を進言したが孝文帝は運漕路開拓の意義を説明し慰めた。宮殿造営の木材運搬で伊洛の急流に浮橋建造を提案し実現、羽林監・主客令、平陽太守を経て没し光州刺史・諡定を追贈。
  • 子の宵(字景鸞)は詩文を好んだが俗に流れ、薑質らと交遊し知音の士に嗤笑された。書侍御史で没。