北史卷四十六 列傳第三十四 張普惠

孝文帝期からの経学・礼学の名声

  • 字洪賑、常山九門の人。身長八尺、容貌魁偉で『三礼』に精通し『春秋』・諸子百家にも通じた。太和十九年(495年)主書兼制局監として孝文帝に知られ、尚書都令史に転じた。任城王澄に学識を重んじられ、澄の雍州府録事参軍、馮翊郡代理を歴任。
  • 澄が服喪中に馬射を七夕に開こうとした際、普惠は喪礼の理を引いて延期を諫め、澄はこれを容れつつ体面を保つ形で答えた。揚州に転じた澄の下で羽林監、鎮南大将軍開府主簿として名声を博した。
  • 澄の太妃の碑文に「元妃」の号を用いるべきか問われた際、礼制の典拠を挙げて不要と答え、澄はこれに従った。
  • のち歩兵校尉・河南尹丞、免官処分を経て復帰、司空倉曹参軍。広陵王恭・北海王顥の祖母への服喪期間(期か三年か)を巡る議論では、二王の祖母が国太妃として天子の命を受けた立場にあることを理由に三年喪を主張、国子博士李郁との論争に勝った。任城王澄に「諫議を得た喜びより、諫議が君を得た喜びの方が大きい」と評された。
  • 霊太后の父胡国珍に「太上秦公」の号を追贈しようとした際、天に二日なく礼に二上なしとの原則を密表し諫めた。任城王澄・清河王懌・崔光・元匡・崔亮ら重臣を前にした議論で理を尽くして反論し、廷尉少卿袁翻を「雕虫の小芸で及ぶところではない」と一喝し沈黙させた。結局朝議は普惠の主張を容れず、霊太后は「既に決めたことだ、以後は難言するな」と諭したが、普惠の忠節を「孝子の志、忠臣の道」と称えた。杜弼から称賛の書簡を受けた逸話も伝わる。
  • 綿麻の調の復活が民への負担増になることを高祖の軽賦の趣旨に反すると上疏、月一度の陛見を求め、孝明帝の親政不行き届きと過度な仏教偏重(郊廟の儀を有司任せにする)を諫め、寺院造営の抑制を求めた。日食の予告に伴う朝廃止も非礼として批判。時政の得失として法度の統一・軽賦、輿論を聴くこと、忠良の登用、勲親の子孫の救済の四点を上奏。霊太后との対話で「万民は慈母の赤子」「彭城王すら枉死を免れなかった」等の比喩で切実に訴えた逸話が詳しく記される。
  • 任城王澄の薨後、寒暑を問わず服喪に通った。澄の遺言で尚書右丞に推挙されたが、家柄が低いことを理由に尚書諸郎が抵抗する一幕もあった。
  • 正光二年(521年)蠕蠕主阿那瑰の帰国送還に反対を上疏したが容れられず。魏子建の益州刺史時代の贓罪疑惑を調査し容疑を晴らした縁で子建父子に恩義を感じられた。梁の西豊侯正德の偽降を見抜き、揚州へ移送すべきと進言したが容れられず、正德は逃亡した。仇池・武興の氐族反乱に対し西道行台として七州の兵を統率し租税輸送を差配。東予州刺史として境界の複雑な郡県を整理し治績を上げた。
  • 財を蓄えず旧知を重んじる人柄で、亡友侯堅固の子長瑜を扶養し出仕を斡旋した逸話。予州で没し諡宣恭。