朱元旭
- 字君升、楽陵の人。子史に通じ度支郎中として神亀末(520年頃)の官吏淘汰で辛雄・祖瑩・羊深・源子恭と共に才用を認められ留任、尚書右丞・郎中・本州中正を兼ねた。関西都督蕭宝寅の兵糧報告の不備を明帝に問われた際、指を折って計算し一年分に及ぶことを示し危機を救った逸話。衛将軍・左光禄大夫、天平中(534〜537年)尚書左丞、機知はあるが節操に乏しく世俗に従う人物と評され、義州刺史で没した。
史論
- 寿春・南鄭は建鄴・成都の要衝であり、裴叔業・夏侯道遷は機を見て翻然と帰順し、土地を献じて功を成した点で封爵に値したが、植は徳を保てず器は小さく志ばかり大きかったために滅んだ。衍は才略ある将だったが天寿を全うできなかったのが惜しまれる。李元護・席法友・王世弼・江悦之は人に頼って事を成したとはいえ果決の士であった。淳于誕は功名を志したが遂げられなかった。沈文秀は節を曲げず、死節の気概があり自ら礼遇されたのみか子も刑を免れた、忠義とは努めるべきものである。張讜は機を見て帰順し流離の民を憐れんだ点で仁智といえる。李苗は文武の才幹と沈毅さで大節に殉じた、仁ある者は必ず勇ありというのはこの人のことだろう。劉藻・傅永・豎眼は文武の器幹で知られ、豎眼はさらに辺境の教化にも優れ、二人に勝るとも劣らぬ良牧であった。張烈は早くから気概を持ちながら趣舎が世俗に流された点が惜しまれる。李叔彪・路恃慶はそれぞれ見るべき器量があり、象も風采と文才に優れた俊才であった。房亮・曹世表・潘永基・朱元旭は皆それぞれの由縁で名を成した官人である。