北史卷四十五 列傳第三十三 張烈

張烈

  • 字徽之、清河東武城の人(孝文帝より「烈」の名を賜り本名を字とした)。高祖悕は慕容俊の尚書右僕射、曾祖恂は散騎常侍で慕容徳に従い南渡し斉郡臨淄県に居した。孤貧の中で経史を渉猟し気概あり、崔徽伯・房徽叔と共に「三徽」と称された。孝文帝に侍御・主文中散として仕え、遷都後は太子歩兵校尉。
  • 斉将陳顕達の反乱の兆しを受け、荊州刺史広陽王嘉が疑わしい順陽太守王青石の交代を求めた際、孝文帝が「太子歩兵の張烈は軍国事によく通じる」と評し順陽太守に抜擢、崔慧景の70余日の包囲によく耐え、孝文帝の南討で解囲された。孝文帝の慰労「陛下が親征したから救われたのであり、私が陛下を裏切らなかったのではない」という応答の逸話。
  • 宣武帝即位後、清河県子。母の老いにより十余年帰養、飢饉に粥を施し郷党に称された。明帝即位後、司空長史。元叉の父江陽王継が青州刺史だった縁で叉に媚びへつらい、給事黄門侍郎・光禄大夫に至ったが、霊太后の反政後は叉党として青州刺史に出され、家産・家僮が多いことを懸念され瀛州刺史に改められた。清静な統治後、辞任し兄弟同居で郷里に慕われ没した。
  • 遺言として千余言の家誡を残し官爵の贈与を求めぬよう子に命じた。子の質(博学有才芸)が遺言を守った。
  • 弟の僧皓(字山容)は群書に通じ談説に巧みで諫議大夫・国子博士・散騎侍郎に召されるも起たず「徴君」と呼ばれた。財産を好み蓄財に努める一方、兄弟共に質素な暮らしをしたが婢妾は華美という逸話も伝わる。博奕を好んで世に譏られ、節閔帝時に崔祖螭の反乱に加担し獄死した。