北史卷四十二 列傳第三十 劉芳
彭城の人、字伯支。宋の東平太守の養子だったが没落し十六歳で北魏に平斉人として移された苦学の人。経学・音訓に精通し「劉石経」と呼ばれ、宣武帝期に朝儀・郊祀・国学制度の整備に尽力した大儒。子孫にも学者・文人を輩出した。
出自と苦学
- 劉芳、字は伯支、彭城叢亭里の人、漢の楚元王劉交の後裔である。六世祖の訥は晋の司隷校尉、祖の該は宋の青・徐二州刺史、父の邕は宋の兗州長史であった。劉芳は宋の東平太守劉遜之の養子となった。邕は劉義宣の乱に連座して彭城で死んだ。劉芳は伯母房氏に伴われて清州へ逃れ、赦免に遇った。舅の元慶は宋の青州刺史沈文秀の建威府司馬であったが、文秀に殺された。劉芳母子は梁鄒城に入った。慕容白曜が青・斉を南討し梁鄒が降ると、劉芳は北へ徙されて平斉人となった、時に十六歳。
- 南部尚書李敷の妻は司徒崔浩の弟の娘で、劉芳の祖母は崔浩の姑にあたる。劉芳が京師に至り李敷の門を訪ねたが、崔氏一族は劉芳の流落を恥じて会おうとしなかった。窮乏の中にあっても学問への志は堅く、聡敏さは人に優れ、経典に篤志を寄せ、昼は書写の賃仕事、夜は読経で眠らず、衣を交代で着て食を隔日にする窮乏に至っても、淡然と自らを守り、栄利を急がず貧賤を憂えず、『窮通論』を著して自らを慰めた。常に諸僧のために経論を書写し、その筆跡は評判となり、数年でかなりの蓄えを得た。これにより徳のある学僧たちとの交わりが広がった。あるとき南方の沙門慧度が事件で咎められ間もなく急死した件に関連して知識があったため、文明太后に召され鞭打ち百回を受けたが、内侍の李豊が劉芳の篤学と志行を太后に伝え、太后も内心恥じた。斉の使者劉纘(劉芳の族兄)が来ると、劉芳は主客郎を兼ねて抜擢され、劉纘との折衝にあたった。中書博士を拝し、のち崔光・宋弁・邢産らと共に中書侍郎となった。皇太子への進講を命じられ、太子庶子に遷り員外散騎常侍を兼ねた。
学識と朝儀への貢献
- 洛陽遷都に従い、道中も京師でも常に侍坐して講読した。劉芳は才思深く経義に精通し博聞強記、『蒼雅』にも通じ音訓に長じ、疑問を明快に解いた。礼遇は日に厚くなり、賞賜も豊かになった。通直常侍を兼ね南巡に従い行事を記録し、まもなく正式に任ぜられた。
- 王肅が来奔した際、宴席で「男子には笄がない」と語ったのに対し、劉芳は『礼記』を引いて「古は男女とも笄がある」と論証した。王肅がなお異を唱えたが、劉芳は喪礼における免・髽・冠・笄の区別を精密に説明し、孝文帝も久しく称賛した。王肅も感服し、「これは劉石経ではないか」と評した(かつて漢代に三字石経が太学に建てられ、学者が文字の正誤を質した故事になぞらえ、劉芳は「劉石経」と呼ばれるようになった)。酒宴の後、王肅は劉芳の手を執り「南朝で『三礼』を論じ合ってきたが、今日の説明で長年の疑いが晴れた」と語った。
- 孝文帝が洛陽遷都の途上、殷の比干の墓を見て悼み弔文を作った際、劉芳が注解を付して上呈し、「文は屈原・宋玉に及ばぬが理は張衡・賈誼に恥じる、雅致がある」と評された。国子祭酒に抜擢されたが、母の喪により去官した。
- 帝の宛・鄧親征に際し輔国将軍・太尉長史として起用され、太尉咸陽王元禧に従い南陽を攻めた。斉将裴叔業の徐州侵攻に対し、帝の憂いにより散騎常侍・国子祭酒・徐州大中正として徐州の事を代行した。のち侍中を兼ね馬圏親征に従った。孝文帝が行宮で崩御すると、宣武帝の即位に際し劉芳が自ら袞冕を着せた。孝文帝の喪礼・啓祖・山陵・練祭に至るまで、始終劉芳が撰定した。咸陽王元禧らの意を受け、宣武帝への進講も命じられた。南徐州刺史沈陵の叛乱・徐州の大水に際しても撫恤を命じられた。まもなく正式に侍中となり、祭酒・中正はそのまま兼ねた。
郊祀・国学制度をめぐる上奏
- 上表して国学の位置を論じた。「唐虞以前は典籍によりがたいが、周代以降は師氏が武門に居した。今の祭酒は周の師氏にあたる。『洛陽記』には国子学は天子の宮と対して置かれ、太学は開陽門外にあるとされる。『礼記学記』の鄭玄注によれば内には師保による国子の教育、外には太学庠序の官がある。国学は宮城内、太学は外にあるべきであり、遷都した以上、国学の位置は旧に照らして宮門の左に置き、太学は既存の地に営むべきである」と論じ、採用された。
- また四門学の設置についても論じた。「周以前の学制は東西・国郊の別があり、周に至って師氏・太学・四小学の六学があった。『礼記』『大戴礼保傅篇』等を引き、四郊の虞庠の制を考証、漢魏以降は四郊の制が失われたが、王粛注によれば天子の四郊の学は都から五十里、鄭玄は遠近を明示していない。太学の旧地は広く四郊に別置するのは遠隔で監督が困難であり、太学の地に四門を併せ置くべきだが、なお過大とも言える。定めは儒者・礼官の議に委ねるべき」と論じた。
- 中書令に遷り祭酒はそのまま。青州刺史として出たが、政は寛緩で奸盗の禁圧に欠けたものの、廉潔寡欲で公私を乱さなかった。朝廷に戻り律令の議定に参与、古今を斟酌して大議を主導した。宣武帝は朝儀の欠を憂え、その修正を劉芳に一任、以後朝廷の吉凶大事はみな劉芳に諮問された。太常卿に転じた。
- 五郊・日月の壇の位置が城からの里数において『礼』の規定に違うこと、また霊星・周公の祀が太常に隷属すべきでないことを上疏した。『孟春令』等の四時の令、盧植・賈逵・許慎・鄭玄・高誘・王粛らの諸説を博引し、東郊八里・南郊七里・中郊五里・西郊九里・北郊六里という数値を考証、『祭祀志』の後漢建武二年の故事も引いて論拠とした。日月の壇の位置、高禖祠・霊星(本来郡県に属すべきもの)・周公廟・夷斉廟の所属についても論じ、「太常に一律に移すのは本義に反する恐れがある」と述べた。詔は「典拠は明確だが、先朝の設置が久しいので旧に従え」とされた。
- 先に孝文帝は代都で高閭・陸琇・公孫崇らに金石・八音の器の修理を命じていたが、公孫崇が太楽令となり尚書僕射高肇に更なる改修を請うた。宣武帝は劉芳にこれを主管させた。劉芳は「礼楽の事は重大、広く公卿儒彦を集め討論すべき」と表し、許されて数十日の間に三度議論が交わされた。朝士は公孫崇が長く専断してきたことに遠慮して発言しなかったが、劉芳は経典を博引し公孫崇の説の誤りを質し、公孫崇は答えに窮した。尚書はこれを奏上し、詔により劉芳に別途改定させることとなり、学者はみな劉芳に帰した。
- 社稷に樹木がないことについても上疏した。『合朔儀』『周礼大司徒』『論語』(哀公問社章)『白虎通』『五経通義』『五経要義』『礼図』等、七つの典拠を挙げて社稷に樹を植える慣例を論証し、さらに『論語』の夏后氏松・殷人柏・周人栗の説と『尚書逸篇』の太社惟松の説を斟酌し、松を植えるべきと結論した。宣武帝はこれに従った。
著述と晩年
- 劉芳は沈着で方正、志操高く、経伝に広く通じ、孝文帝に特に重んじられ、常に相談を受けた。太子恂が東宮にあったとき、孝文帝は劉芳の娘を納れようとしたが、劉芳は年齢・容貌が不相応と辞退し、帝はその謙慎を嘆じた。帝は改めて一族の娘を推挙させ、劉芳は族子劉長文の娘を挙げ、孝文帝はこれを恂に娶らせ、鄭懿の娘と共に左右の孺子とした。
- 崔光は劉芳と中表の縁があり、常に諮問した。劉芳は鄭玄注『周官・儀礼音』、干宝注『周官音』、王粛注『尚書音』、何休注『公羊音』、范寧注『穀梁音』、韋昭注『国語音』、范曄『後漢書音』各一巻、『辯類』三巻、『徐州人地録』二十巻、『急就篇続注音義証』三巻、『毛詩箋音義証』十巻、『礼記義証』十巻、『周官・儀礼義証』各五巻を撰した。崔光は中書監の職を劉芳に譲ろうと上表したが、宣武帝は許さなかった。卒し、鎮東将軍・徐州刺史を追贈され、諡は文貞侯。
子孫(懌・廞・騭・逖・懋)
- 長子の懌(字祖欣)は父の風を備え文翰を好んだ。徐州別駕・兗州左軍府長史・司空諮議参軍を歴任、しばしば行台の出使を務め、いずれも当官の名声を得た。通直散騎常侍・徐州大中正に転じ郢州の事を行い、安南将軍・大司農卿に遷った。卒し徐州刺史を追贈され諡は簡。子がなく、弟の廞の三男峻を後継とした。
- 廞(字景興)は好学で自立心があった。高肇の全盛期や清河王元懌の宰輔期にその子弟と交遊し、霊太后臨朝の際も太后の甥と親交を結んだ。太后は廞に詩と武術を弟の元吉に教授させた。光禄大夫に遷り、孝武帝の初め散騎常侍・驃騎大将軍・国子祭酒に遷った。孝武帝が顕陽殿で『孝経』を講じた際、廞は執経を務め、応答は未だ精緻でなかったが、風采と発声には見るべきものがあった。都官尚書・殿中尚書を兼ねた。孝武帝が関中に入ると、斉神武(高歓)は洛陽に至り、廞を責めて誅した。
- 廞の子騭(字子升)は若くして気概があり文史に通じた。徐州開府従事中郎。父廞の死後、郷兵を率いて兗州に赴き、刺史樊子鵠と共に王師に抗戦、戦うごとに涙を流して陣に突入した。城が陥落すると捕らえられ晋陽に送られたが、斉神武はその心情を憐れんで赦した。文襄王(高澄)の下で本州大中正・中書舎人に転じた。梁との通交の際、前後十六人の使者に対応した。司徒左長史で卒し、南青州刺史を追贈された。廞の弟彧は金紫光禄大夫、その子は逖。
孫逖――生涯
- 逖、字は子長、幼くして聡敏であった。弋猟・騎射を好み、遊興を事とし、交遊を愛して戯謔を好んだ。斉の文襄王が永安公高浚の開府行参軍とした。逖は故郷を離れ旅の暮らしに疲れ、発憤して読書に専念した。晋陽は霸朝の人士が集う都会であり、皆が宴集にふけったが、逖は遊宴の中でも書物を手放さず、未見の文籍があれば終日誦し、時に夜通し帰らなかった。文藻にも心を留め、詩詠を得意とした。
- 斉の天保初、定陶県令として姦事に連座し免官、十余年不遇であった。姉が任氏の婦となり没官され、勅により魏収に賜与された縁で、魏収に提携され開府参軍となった。文宣帝崩御の際、文士たちが挽歌を作り、楊遵彦が選定したが、員外郎盧思道が八首採用されたのに対し逖は二首のみで、中書郎李愔に「盧八問訊劉二」と揶揄され、逖はこれを恨みに思った。乾明元年、員外散騎常侍を兼ね梁主蕭荘の送還を務め、還って三公郎中を兼ねた。
- 武成帝の時、和士開が寵を得て権勢を振るうと、逖はこれに付いた。中書侍郎に正授され機密に参与した。李愔がかつて天保年間に讒言を被った旨の賦を献じたのに対し、逖はその文を摘発して「先朝を誹謗する大不敬」と奏し、武成帝は怒って李愔を鞭打った。逖はかつての恨みを晴らしたことを喜んだ。まもなく散騎常侍を兼ね聘陳使主となった。逖は文藻を独占したく他の文士との同行を望まず、黄門侍郎王松年の妹婿盧士遊(沈密な性格)を副使に求めた。また逖の姉で魏氏に嫁いでいた者(すでに魏収の下から放たれていた)を盧士遊に嫁がせようとしたが、断られた。事が露見することを恐れたが、無理強いはしなかった。給事黄門侍郎に遷り国史を修めた。散騎常侍を加え仮儀同三司として聘周副使を務めた。両国の国交が始まったばかりで礼儀が定まっておらず、逖は周の朝廷と議論を重ね、古今を斟酌して多くを礼にかなわせ、文辞も見事で名声を得た。還って儀同三司を拝した。
- 武成帝崩御に際し和士開が改元を図ったとき、議論は分かれたが、逖は「武平」を提案し、密かに士開に「武平とは士開(明輔)のためのものだ」と語り、士開は喜んでこれに従った。士開が世論に排斥されると、婁定遠が共に輔政したため逖はこれに転じ、西方の財貨を得て悉く定遠に贈った。定遠が外任に出ると逖は不安になり、密かに斛律明月・胡長仁と結んで自らを固めようとしたが、士開はこれを知り、たまたま明月の門前で逖に出会ったことでその疑いを確信した。かつて逖が未だ名声を得なかったころ、祖珽に仕えようとしたが、珽は逖を「彭城の楚の子(気骨がありそうに見えて崔季舒の詩を人に示すなど気概に乏しい)」と評していた。逖はそこで弟を珽の娘に娶らせ、密かな親交を結んだ。珽が趙彦深・和士開を訴えようとした際、まず逖に謀を明かしたが、逖は逆に両者に告げ、両者はこれに対処できた。珽は黜けられ弟に妻を出させることとなった。この件で逖は士開の疑念を解いた。まもなく仁州刺史として出された。珽は行台尚書盧潜を使って逖を陥れようとし重い異動を約したが、盧潜は「そのような事はしない」と断り、むしろ逖を戒めて守った。のち召還され待詔文林館、重ねて散騎常侍・奏門下事を授かったが、まもなく崔季舒らと共に誅殺された、時に年四十九。著した文筆は三十巻。子の逖人は開府行参軍、隋に仕え洛陽令で終わった。
從子懋――生涯
- 懋、字は仲華、祖父泰之・父承伯は宋に仕えいずれも名位があった。懋は聡敏好学で経史に博通し、草隷書に長じ奇字にも通じた。宣武帝の初め入朝し尚書外兵郎中となった。劉芳に重んじられ、朝廷の儀礼撰定に常に参与し、尚書の博議では殿中郎袁翻と共に議論を主導した。政務に通じ、台中の疑事はみな懋に諮って決した。尚書李平とは莫逆の交わりを結んだ。歩兵校尉・郎中の兼摂・東宮中舎人に遷り、員外常侍・鎮遠将軍・考功郎中に転じ考課の科を立て黜陟の法を明らかにし、条理を備えた制度とした。
- 孝昌の初め、大軍が硤石を攻めた際、懋は李平の行台郎中を務め、城が陥落するとかなりの功があった。太傅清河王元懌は懋の風雅を愛し、「劉生は堂堂として搢紳の領袖、天が命を貸せば必ず魏朝の宰輔となろう」と評した。詔により懋は才学ある士人と共に儀令を撰した。元懌が宰相を務めた数年間、特に懋を重んじ、諸子の師とさせた。太尉司馬に遷った。熙平二年(517年)冬、急病で卒した。家は極めて清貧で、没した日には四方の壁しか残らなかった。太傅元懌をはじめ当時の才俊は皆その死を痛惜した。持節・前将軍・南泰州刺史を追贈され、諡は宣簡。詩・誄・賦・頌および文筆は当時に称えられ、また諸器物の由来を記した『物祖』十五巻を撰した。