北史卷四十 列傳第二十八 甄琛
字思伯、中山毋極の人、漢の甄邯の後裔。若い頃は囲碁に耽り放蕩であったが下僕の諫めで改心し学問に励んだという逸話で知られる。御史中尉として塩の禁を緩めるべきと上表するなど識見を示したが、寵臣趙脩への追従が露見して一時免官された。のち復職し侍中にまで進み、諡は「孝穆公」とされた。
出仕と塩禁論
- 字思伯、中山毋極の人、漢の太保甄邯の後裔。父凝は州主簿。琛は幼くして敏悟だが礼法に拘らず、容貌は短陋で風儀に乏しかった。秀才に挙げられ都に長く滞在し囲碁に日夜耽ったため、下僕が灯を執るのに疲れ叱責された際、下僕は「主人が読書のために灯を執るのなら苦にしないが、囲碁のために夜通し起こされるのはおかしい」と訴え、琛は恥じて改心し学問に励んだ。太和初、中書博士、諫議大夫に遷り孝文帝に評価された。
- 宣武帝即位で中散大夫・御史中尉を兼ね、塩の禁を緩めるべきと上表した。山林藪沢の産は民に開放すべきで、天子は塩の利で富を専らにする必要はなく、府蔵は施さねば災いを招くと説くものであった。彭城王勰・邢巒らは慎重論を唱えたが、宣武帝は琛の意見を助政の言として採用しつつ豪強禁止の制も命じた。
趙脩事件と免官
- 侍中・中尉となるが貴顕への弾劾は緩く、当時の寵臣趙脩に身をもって仕え、父凝・弟僧林も趙脩に取り入り官職を得た。趙脩の奸事が露見すると、琛は密かに同情しつつも人前では非難した(「趙脩は小人で鞭に耐える」と語り識者に非難された)。趙脩死後、琛は黄門郎李憑と朋党を疑われ召喚され、元英・邢巒がこれを追及した。北海王詳らは上奏で琛の趙脩への追従・父弟の不当な昇進・李憑との結託を弾劾し免官を求め、これが認められた。琛は本郡へ帰され、連座して死黜された者は20余人に及んだ。
- 琛は父母の老いを理由に本州長史となっていたが貴達後は帰郷を願わず、免官後にようやく帰り数年間孝養、母の死に喪礼を尽くした。母曹氏は孝行者で、琛は塋兆に自ら松柏を植え十余年で墳が成った。弟僧林と共に生涯同居を誓い産業に従事した。
復帰と晩年
- 復職後、散騎常侍・給事黄門侍郎・定州大中正となり親寵された。孝文帝時、斉の使者劉纘を接待し親交を結び、纘の子昕の娘を妻に迎えた。河南尹に遷り、上表して都邑の治安維持を提言した(里正の職が軽輩で盗みを防げない現状を批判し、武官から適任者を起用すべきと説くもの)。詔でこれを一部採用し、羽林を遊軍として坊巷を巡察させ京邑は清静となった。
- 太子少保に転じ、高肇の死後は党与として営州・涼州刺史に出され、のち吏部尚書、定州刺史に移る際は待遇の低さを不満に固辞したが詔で慰められ赴任した。崔光の司徒辞退の際には表裏のある書を送った。晩年、車騎将軍・特進・侍中となり、老衰により杖を賜った。卒後、司徒公・尚書左僕射を贈られ、太常が「文穆」と諡しようとしたが吏部郎袁翻が諡法の乱れを批判し「孝穆公」に改められた。詔でこれに従い、以後の行状審査を厳格化する制度も定められた。祖載には明帝自ら臨み哭した。
- 琛は軽薄で嘲謔を好み風望は少なかったが明解で幹具あり、官では清廉だった。著作に『磔四声』『姓族廃興』『会通緇素三論』『家誨』20篇、『篤学文』1巻がある。
甄琛の子弟・同族
- 長子侃(字道正)は秘書郎、性険薄で盗賊と交わり洛水亭舎で主人を殴打し司州に劾せられ獄に淹留、広平王懐との旧怨もあり長く不遇のまま卒した。
- 次子楷(字徳方)は文学あり吏事に通じ秘書郎となった。宣武帝崩御の未葬中に飲戯し免官も後に尚書儀曹郎。丁憂中に定州刺史広陽王深の長史となり、鮮于修礼・毛普賢の乱の際、州城内の燕恆雲三州避難民の中の粗暴な者を殺し賊への呼応を防いだが、後に修礼らに父の墓を暴かれ棺を巡回されて報復を受けた。孝荘帝時、中書侍郎、のち斉の高澄に仕え儀同府諮議参軍、卒後驃騎将軍・秘書監・滄州刺史を贈られた。
- 従弟密(字叔雍)は清謹で書史に通じ『風賦』を作り貪競を戒めた。中山王英の鍾離敗戦時、賊中に没した郷人蘇良の私財による贖いに応じ、良の返礼を固辞した。葛栄侵攻時、相州行台として鄴城を援守し、荘帝より安市県子を賜う。孝静初、衛尉卿として平直の誉れあり、北徐州刺史で卒官、驃騎将軍・儀同三司・瀛州刺史・諡靖を贈られた。
- 同郡の張纂(字伯業)、祖珍(字文表)は慕容宝の度支尚書で道武帝入魏後は涼州刺史・諡穆。纂は経史に通じ気節高いが樂陵太守として不正蓄財、御史の来訪を聞き逃走し除名、天平初に定州刺史を追贈された。纂の叔感(字崇仁)は器業あるも州郡の招聘に応じなかった。感の子宣軌は母への孝で知られ、葛栄の囲城時に刺史李神と共に固守の功で中山公を賜るが事に坐し鄴で死した。纂の従弟元賓は奉朝請、甥の高昂の顕達により瀛州刺史を追贈された。