北史卷四十 列傳第二十八 李彪
字道固、頓丘衛国の人、孝文帝より名を賜った寒門出身の学者官僚。秘書丞として高祐と共に紀伝体による国史編纂を初めて奏上し、封事七条を上表して典章制度の整備を説いた剛直な御史中尉。李沖との対立で一時除名されたが、のち赦されて修史に執念を燃やし、白衣のまま著作を続けるも未完のまま没した。孫の李昶は西魏・北周に仕え、詔冊の文筆を担う重臣となった。
出自と抜擢
- 字道固、頓丘衛国の人、孝文帝より賜名。家は寒微で幼くして孤貧、大志があり学を好んだ。長楽の監伯陽に学び称賛された。漁陽の高悦・北平の陽尼らと隠遁を図るが果たさず、高悦の兄閭の蔵書を借り読み耽った。平原王陸叡が彪の名を聞き師友の礼を修め孝廉に挙げた。高閭・李沖に評価され彪はこれに深く附従した。
- 孝文初、中書教学博士。のち散騎常侍・衛国子を仮し斉へ使した。秘書丞に遷り著作事に参与。崔浩・高允以来の国書は編年体で『春秋』体だったが遺漏が多く、彪は秘書令高祐と共に紀・伝・表・志の紀伝体を初めて奏上した。
封事七条
- 彪はまた封事七条を上表した。 一、制度における宮室・車服の等級を古の哲王に倣い定めるべきである。奢侈の風潮は上の好みが下に及ぶためで、貴賤の等制を明確化すべきと説いた。 二、太子への師傅教育の重要性を説き、『易』『礼』を引いて塚嫡の重要性を論じ、高宗文成帝が幼時の師傅の教えが十分でなかったことを反省した逸話を引き、太子には師傅を立てるべきと説いた。 三、国に三年の備蓄なきは国にあらずとし、州郡の常調の一部・京都の余剰を積み、豊年に糴し凶年に糶く制度、また農官を置き屯田を興すことを提案した。あわせて河表七州の人材を登用すべきとも説いた。 四、断獄の時期について、漢の陳寵の議論(十一月・十二月・正月の陽気の萌しに準じる三正の理)を引き、断獄は初秋から孟冬までに行い、三正の春には行うべきでないと説いた。 五、大臣の処罰は「簠簋不飾」など婉曲な表現を用いて名誉を保ち、罪ある大臣にも自尽を許すべきと説き、漢文帝と周勃の故事、賈誼の上書を引いてこれを永制とすべきと論じた。 六、父兄・子弟の連座について、罪あるとき互いに感情を示さぬ無情な風潮を批判し、父兄が罪を得れば子弟は素服肉袒して詣闕請罪すべきであり、逆もまた同様とすべきと説いた。 七、喪礼の遵守について、『礼』の「君は大喪の臣の門に三年入らず」を引き、漢以来の喪制の変遷(宣帝・後漢元初・晋の鄭黙の故事)を述べ、朝臣の丁憂には終服を許すべきであり、軍戎の際は墨縗のまま従役してよいと説いた。
- 孝文帝はこれを善しとし施行、彪は礼遇された。詔で「彪は清第の出でないが識性厳聡、学は墳籍に博く剛弁の才あり」として秘書令に特進させ、律令参議の功で帛500匹・馬・牛を賜った。同年、員外散騎常侍として斉へ使した。
南朝への使節と剛直
- 斉の主客郎劉繪との応酬では喪礼を巡る問答があり(孝文帝の逾月の喪、期年に定めた理由の説明)、詩の応酬(阮籍の詩を引用)も交え、斉主は彪を厚く送別した。前後六度の使命を果たし南人はその該博さに驚嘆した。御史中尉・領著作郎となる。
- 孝文帝に寵され剛直な性格から多く弾劾し豪右に恐れられた。帝は彪を「李生」と呼び「朕が李生を得たのは漢の汲黯を得たようなもの」と評した。散騎常侍・御史中尉に転じ著作を解いた。帝は「崔光の博学、李彪の剛直はわが国の得た賢才の基」と評した。
弾劾と失脚
- 南伐に従軍し度支尚書を兼ね李沖・任城王澄らと留台の事を治めたが意見が対立し降下の意なく、李沖は彪の罪状を尚書省に禁止し上表した。彪は才を抜擢されたのに矜勢高亢・僭逸で禁省の官材を冒取するなどと弾劾し、免職・廷尉獄行きを求めるものであった。李沖はさらに彪との22年来の交友を述べつつ、河陽事件(廷尉囚徒の審理で彪が激怒し「木手で肋を折れ」と叫んだ)等の実例を挙げ、彪の言行不一致・専恣を訴えた。
- 帝は懸瓠でこの上表を見て驚愕、有司は彪に大辟を科そうとしたが帝はこれを恕し除名のみとした。
- 彪は郷里に帰った。帝が鄴に行幸した際、野服で草茅の臣と称し出迎えた。帝「卿はもう死んだと思っていた」に対し、彪は「子在り、回何ぞ敢えて死せん(孔子と顔回の故事)」と応じた。帝は彪を用いようと考えたが結局用いられず、宋弁の言により再登用を図るが留台からの上表(庶人恂の事件で誣抑があったとの弾劾)があり収監された。彪は自ら冤罪を訴え、帝はこれを認め牛車で洛陽へ送らせた。赦により免れた。
修史への執念
- 宣武帝即位後、王粛に自らを託し郭祚・崔光・劉芳・甄琛・邢巒らと詩書を交わし旧職(史官)への復帰を求めた。上表して修史の意義を説き、孝文帝の大功20を列挙して称え、史官の任は日月・四時に等しい重責であり、司馬談・司馬遷や班彪・班固のような世襲的な業だが、王隠のように陵遅の世に容れられなかった史官の不遇の例も挙げた。傅毗・陽尼・邢産・宋弁・韓顕宗ら同僚の著作局員が皆早世し業を終えられなかったことを述べ、崔光のみが残るが兼職で著述が滞っていると訴えた。自らの名「彪」を賜った由来を漢の班彪・晋の史官になぞらえ、静処を得て修史を終えたいと願い出た。
- 司空北海王詳・尚書令王粛がこれを許可し、王粛は禄のない彪に物資を援助、秘書省で王隠の故事に倣い白衣のまま修史した。
- 宣武帝親政後、崔光が彪の復職を上表するが許されなかった。彪は通直散騎常侍・行汾州事に任じられるが本意でなく固辞し、洛陽で卒した。
- 彪は中尉在任中厳酷で知られ、木手で脇腹を打つ拷問を用い、汾州の叛胡を鞭打って殺すなどした。病死の際は体に瘡が生じ苦痛甚だしかった。汾州刺史を贈られ諡は剛憲。秘書省在任1年余りで史業は未完だったが、紀伝体の書式区分は彪の功績であった。『春秋三伝』を10巻に述作、他に詩頌賦誄章表の集がある。
李彪の家族
- 彪は宋弁と管鮑の交わりを結んだが、弁は大中正として孝文帝に彪を寒門扱いし優遇しなかった。彪はこれを恨まず、弁の死には深く哀誄を作った。郭祚は吏部で彪の子志のため旧第の官職しか与えず、彪は不満を抱いた。任城王澄とは元不和だったが澄は志のため府寮の職を与え称賛された。
- 子の志(字鴻道)は博学有才で、10余歳で文を能くし、彪は崔鴻に「鴻道と共に洛陽の二鴻となれ」と評した。
- 彪には聡明な娘があり、彪は「これは我が家を興すだろう」と語った。彪の死後、宣武帝がその名を聞き婕妤として召し、宮中で帝の妹に書と経史を教えた。宣武帝崩御後、比丘尼となり経義に通じ講説し諸僧に敬われた。
- 志は各地で治績を上げ、桓叔興の南荊叛乱の後、南荊州刺史に抜擢された。建義初、梁に亡命した。
- 志の弟游も才行があり、爾朱の乱で兄志と共に江左(江南)へ奔った。志の子は昶。
李昶
- 小名は那。性は峻急で交遊を好まず、幼くして文を解し洛陽で名を知られた。洛陽に明堂が置かれた際『明堂賦』を作り才を示した。周文帝(宇文泰)に謁見し深く器を認められ太学に入る。周文帝は学生の才行を問う際必ず昶に問うた。綏徳公陸通の司馬となり公私の事を委ねられた。丞相府記室参軍・著作郎・国史修撰、大行台郎中・中書侍郎・黄門侍郎を歴任、臨黄県伯に封ぜられた。祖父李彪が御史中尉であった故事を引かれ、御史中尉に任じられ宇文氏の姓を賜った。
- 六官制の下で内史下大夫、侯に進爵。明帝初、御伯中大夫。武成元年、中外府司録。保定初、驃騎大将軍・開府儀同三司、御正中大夫。安昌公元則・中都公陸逞・臨淄公唐瑾らと共に納言となった。まもなく公に進爵。5年、昌州刺史となるが病を得て入朝を求め、途中で卒し相・瀛二州刺史を贈られた。
- 周文帝の代から枢要にあり、詔冊の文筆を専ら担った。晋公宇文護執政期も同様に重用された。昶は「文章は後世に流れるに足らず、経邦致化こそ古人に及びたい」と述べ、文筆には草稿を残さず政事に専心した。父が江南にあり自身は関右にいたため、生涯酒楽を絶った。子丹が嗣いだ。